四本足に閉じ込めて
最近、私はクリスの恋人で居ることに小さな疑問を覚えていた。頻繁に会えるわけでもないし、たまに顔を合わせたかと思えば夕食を共にしたりだとか、その程度。久しぶりに会ってもプレゼントや花束どころか甘い言葉を囁いてくれるわけでもない。人を愛するのに損得を考える時点で私たちの関係は既に破綻しているのではないかと思うが、それでもたまに顔を合わせればやはり好きだなと思ってしまう自分が居る。恐らく私は、クリスに愛されている自信がないのだ。
夜はすっかりふけた午後十時過ぎ。何日ぶりか分からないぐらいの久しぶりのデートはまたも食事だけで終わり、私はクリスの車の助手席に座って窓の外を流れる夜の街をぼんやりと眺めた。クリスが所有している車は無駄に大きく、今すぐにでも任務におもむきBOWの一匹や二匹は轢き殺せそうだ。プライベートでくらい普通の車に乗ればいいのにと、微かに香る煙草のにおいを嗅ぎながら思う。
クリスは新しい任務により明日からヨーロッパに発つらしい。今夜のデートも恐らくは“また”しばらく会えない埋め合わせなのだろう。二人の間にたいした会話はなく、音楽を流してもいない車内は静まり返っている。別にこの沈黙に対して居心地が悪いなどとは思わない。クリスはそこまでしゃべらないし、私だって一般的な女性に比べたらおしゃべりではない方だ。こんなの慣れている。
あと少ししたら私が住むアパートに到着して、クリスが“じゃあな”なんて言って、私も“おやすみ”なんて返しながら車を降りて久しぶりのデートのようなものは終わる。キスどころか手を握ることすらしないだろう。例えば私が“もう少し一緒にいたい”だとか“まだ帰りたくない”などと言えば、クリスはどんな反応をするのだろう。色々と忙しくいつだって精神的に追い詰められている彼の脳内に私は存在しているのだろうか。
暗い窓の外にぼんやりと私の住むアパートが見えてきて、車は徐々にスピードを落としながらゆっくりと停まる。クリスはエンジンを切らずにハンドルを握ったまま何も言わずに私の顔を見た。その顔は私の“おやすみ”の言葉を待っているのか、それとも目で“降りろ”と訴えているのか、どちらかなのかが私には分からない。むしろその両方なのかもしれないとすら思う。
はいはい分かりましたよ、降りれば良いんでしょ降りれば。そんなことを頭のなかでぼやきながら軽くため息をつき、シートベルトを外してドアに手をかけた、その時だった。
「」
クリスの声が私の名を呼ぶ。その声は聞き慣れているはずなのに自分の名を呼ばれるのは久しぶりな気がして、妙に緊張し鼓動が早くなる。私はドアに手をかけたままクリスの方向へ向き、彼の顔を見ながら目で“なに?”と返事をした。
「何か言いたいことがあるなら言え」
予想外の言葉が飛んできて、一瞬思考が停止したような気分になる。「何か言いたいこと」なんて山ほどある。それでも何から口にすれば良いのかは自分でも分からない。しかしクリスがそんな私の様子に勘づいていたことが意外に思えた。
「わかるの?私が何か言いたそうだって?」
ドアから手を離し軽くクリスの方へ向き直ると嫌味っぽく言う。そんな私の態度を不快に思ったのか、クリスは鼻で長い溜息をつくと、ハンドルを握っていた手を片方だけ外しこちらに手を伸ばした。頬か髪にでも触れられるのかと思いきや、クリスの手は私の肩に置かれ少しだけがっかりする。
「当たり前だろ。何年一緒にいると思ってる」
恋人になって何年経ったかなんて私はすでに忘れてしまったけれど、ただ長い時間一緒に居た気がする。だからこそこんな風に、いわゆる“倦怠期”に陥ったとしても、会えない時間がずっと続いたとしても、クリスはなんとも思っていないんだろう。
「言ってくれ。どんなことでも受け止める」
真剣なまなざしでこちらを見ながらそう口にするクリスの片手はハンドルに置かれたままだし、エンジンもかかったままだ。私が車を降りたらあっという間に走り去ってしまうだろう。
私に「何か言いたいこと」があるということは分かるのに、それ以外は何も分からないクリスに残念な気持ちになるも、その気持ちはお門違いで、私の自分勝手な思いだ。気持ちを分かって欲しい、察して欲しいなどと考えるのは間違っている。本当に心から想っていることならば、言葉で伝えなければ意味がないのに。
「帰りたくない」
まるで呼吸をするのと同等かのように私の口から自然と言葉が出た。クリスの眉が微かに動いたのが分かると、それ以上彼の表情の変化を見ているのが怖くなり目を伏せる。
「まだ帰りたくない。もっと、クリスと一緒にいたい」
ぼそぼそと小さく情けない声で呟く。そして同時に、何年も一緒に居て今更何を言っているのかと思われたり、面倒臭い女だと思われたりしたのではないかと感じ、後悔の気持ちが胸を満たしていく。
自分の脚を見ていると暗い視界に大きな手が映り込み、それが私の頬に触れた。目を伏せていた私が思わず顔を上げるとすぐ目の前にクリスの顔があり、困ったような笑顔を見せている。
「俺はてっきり、別れたいって言われるのかと思ったよ」
フ、と小さく笑いながらクリスは口にした。むしろそれは私の方で、クリスこそ私と別れたいと思っているのではないかと感じていた。私はただクリスに愛されている自信がなかっただけで、彼のことはずっと好きだ。今までもこれからも。
「そんなこと言うわけない」
先ほどと変わらない小さく情けない声で言ったのと同時に、自分に影が落ちたことに気が付いた。クリスが身を乗り出し私のこめかみの辺りに口唇を落とす。いつ以来か分からないほどに久しぶりのその行為が妙に照れ臭く、一瞬にして顔が熱を帯びたことを自覚した。
「あ、ちょっと、待って」
上ずった声を上げながらクリスから顔をそむけるように窓の外を見る。恐らく真っ赤になっているであろう自分の顔を見られたくないと思ったからこその行動だったが、クリスが私の首の後ろあたりに手を差し込み体を強く引き寄せ、それを阻止する。
「、俺を見ろ」
見ろ、などと言われると余計に見られなくなる。顔は熱くなる一方だし目の前の視界だってぼやけてくる。私はクリスの力に抵抗するかのように目の前に自分の手を広げながら顔を隠した。
「おい手をどけろ。何を今更照れてる。お前が言ったんだぞ。帰りたくないって」
「言ったけど、ちょっと、待ってってば」
「待てない」
低い囁きが聞こえたのとほぼ同時に私の両腕をクリスの手が掴み、至近距離で目が合った。そのまままるで獣のように口唇に噛みつかれると、覚えのある煙草の味が口の中に広がり鼻へ抜ける。緊張と興奮と高揚で満たされる脳内の端でどこか冷静に、吸う煙草の銘柄は変えていないんだなと感じた。
口唇が離されると、クリスはすぐに私の耳の辺りに顔を近づけ髪に口唇を落とす。彼の髭の感触がくすぐったく、妙に懐かしい。
「すべてお前の望み通りにする。俺も、ずっとこうしたかった」
クリスはそう言ってエンジンを切り、車内に静寂が訪れた。この沈黙を居心地が悪いとは思っていなかったが、むしろ今は心地良いとすら感じる。お互いに本当の気持ちを口にした後はもう何も言わなくとも良いのかもしれない。私たちの間にもう言葉はいらない。あなたさえ居てくれるなら、それで。