きっと報われた僕

 長年ベネヴィエント家に仕える叔父から、村で収穫された作物をドナ様に届けるよう命ぜられたのはもう大分前のことになる。ご両親が亡くなられてから閉じこもりがちになったドナ様を、庭師である叔父は過剰なまでに心配してあれやこれやと世話を焼いていたようだが、「年齢の近い話し相手も必要だろう」と甥である僕がベネヴィエント家に通うことになった。

 本来の目的は果物や野菜などの農作物をドナ様にお届けすること。しかし叔父から「気にかけて差し上げろ」と言われ、彼女に話しかけたり古い本をプレゼントしたりしたが、それでも僕たちの目が合うことは稀だったし、彼女が僕に声をかけてくれることもなかった。

 僕はドナ様と言葉を交わしたことがないどころか、彼女の声すら聞いたことがない。それでも僕はドナ様のところへ通ううちに、少しずつ彼女に惹かれていった。

 僕はドナ様の瞳に魅了されていた。たまに目が合うと重く暗い色に吸い込まれそうになるし、僕が本をプレゼントした時にほんの少しだけ細くなる優しい目元を見ると、胸の奥が狭くなるような感覚がする。長いまつげも、その影が落ちる真っ白な頬も、何もかもがまるで手が届かないような完璧までに美しい絵画に思えた。

 ある日、いつものように作物をベネヴィエント邸に運び入れた時のことだった。キッチンのある地下には入らないように命ぜられていたため、リビングに置いておこうと思っていると、テーブルの上に置かれている黄色い花が目についた。

 この辺りには美しい草花が多く生息しているが、その黄色い花は見たことのない種類のようだった。思わず興味をそそられ手に取ると、今までにかいだことのない独特の香りがする。ドナ様は山岳地帯に生息する草花の本をいくつか持っているため、彼女がそのようなものに興味があるということは知っていた。恐らくこの黄色い花もそれに関する植物なのかもしれない。



 その時、聞き覚えのない高い声が僕の名を呼んだ。声のした後方へ振り返るとドナ様が立っており、人形を手に持っている。ウエディングドレスのような白く美しい衣装を身にまとった人形の名は、確かアンジー。ドナ様のお父上が作られた大事な形見だと聞いている。

「いま……僕の名前を呼びましたか……?」

 自分の名を呼ばれたことに確信はあったが、今の今まで全く口もきかず声も聞いたことのなかったドナ様に名を呼ばれたことが信じられず、思わず彼女に問う。そして想像よりもはるかに高い、まるで少女のような声に違和感を覚えた。

 ドナ様は僕の問いかけに応えることはなく、そのまま大股でまっすぐにこちらに近づき、僕が手に持ったままでいた黄色い花を半ばひったくるように奪う。ドナ様は無表情のままだったが、その行動にはどこか怒りのような感情が混ざっているように見え、少し焦る。

「す、すみません。美しい花だったので、つい」

 頭に浮かんだ簡単な言い訳を並べ立ててもドナ様の無表情が崩れることはなく、むしろ彼女がまとう空気はさらに重く冷たいものになっていく気がした。

「僕、今日はもう帰りますね。来週またお届けにあがります」

 この空間に耐えきれず、更なる言い訳が思いつくこともなかった僕はその場を去ろうとした。しかし一歩踏み出そうとした体はまるで何かに縛り付けられたように動かなくなる。金縛りのようだと思ったが、なんてことはない。僕の手をドナ様が掴み止めていただけだった。

「行かないで」

 ドナ様は口唇を動かし、確かにその言葉を口にした。その声は先ほど聞いた少女のように高い声とは違い、落ち着いた大人の女性の声だ。ドナ様が手に持っていた人形のアンジーの首が、まるで頷くようにカクンと下を向く。

「いま……何とおっしゃったのですか……?」

 自分の声が震えているのが分かる。僕の腕を掴むドナ様の手の力は強く、痕が残ってしまいそうだと思うほどだった。掴まれているのは腕であるのに、僕の体は足も首も動かず、瞳はドナ様に吸い寄せられたままになる。

「ずっとここにいて、そばにいて」

 ドナ様が呟く。それこそまるで人形のような無表情が僕の顔を見つめ、底なしの泥沼のような深く濃い色の瞳に落ちた感覚になる。呼吸が上手く出来ず息苦しい。それなのに彼女が欲しくてたまらなくなった。

「ドナ様」

 重く硬くなった体を動かし、彼女の頬に触れ名を呼んだ。僕の好きな瞳が少しだけ細くなり、まぶたが微かに震えているのが分かる。

「僕は、あなたが好きです。ずっと、そばにおります」

 その言葉を口にした瞬間、いつの間に床に落ちたのだろう先ほどの黄色い花を、ドナ様が足で踏み潰す音が聞こえた。床にこすり付けられた花は先ほどよりも強い香りを放ち、どんどんと視界が明るく、白くなっていくように思える。

 その日から僕は村に帰らなくなった。ドナ様のそばで過ごし、日に日に薄れゆく自分自身を確かに感じながらも、それに抗うことが出来なかった。僕はドナ様のそばに居られるならそれでよかった。彼女があの瞳で僕だけを見てくれるのなら、それでよかった。

“行かないで、ずっとここにいて、そばにいて”

 忘れられないドナ様の言葉が頭の中で延々と響いている。人形の関節が動く音。弱く微笑むドナ様のくちびる。ああ、まただ。またあの日と同じ、花の香りがする。