いつか来るだろう咀嚼
今までどれだけの人間を殺して来たか分からない指先に黒いポリッシュを塗る。ラインを引きアートを施してから、トップコートで仕上げる。最後の工程をしている途中でうっかり手が滑ったふりをして彼の指先に触れた。透明な液体が肌に付着して、その部分だけきらめいて見える。
「あーあーあー……、相変わらず下手糞だなぁ、お前」
西谷さんは口角を上げて言う。しかし目は笑っていない。私と同じように彼の世話をしていた数人は、いつもの雰囲気を感じ取ったのか黙ってその場に立ち上がりそそくさと部屋を出て行く。無駄に広いこの場所には私と西谷さんだけとなった。美しく飾られた指先のうちの一本からはみ出した透明なトップコート。遠目からでは何も分からないが、きっと西谷さんは許しはしないだろう。
「今日もわざとなんだろ?ノルマ達成ってやつか?」
私の魂胆が西谷さんにばれていることは分かっていた。彼の前でミスをすればいたぶってくれるだろうと期待していた。殴って蹴り飛ばして、服を切り裂いて噛みついて欲しいと思っている。彼に痛めつけられれば生を実感出来る。西谷さんは私の考えていることが全て分かっているんだ。
「おい、何とか言えって。」
何も言わずに俯いたままでいると、顎を掴まれ強制的に上を向かされる。何を考えているか分からない底の見えない不気味な瞳がこちらを見た。瞬きすらも出来ずその顔に見惚れていると、西谷さんはどこか楽しそうに目を細めて微笑む。
「じゃあ、お待ちかねのお仕置きタイム、始めるか」
顎を掴んでいた手が首に移動し、強い力が込められたのが分かった。呼吸がし難くなったのと同時に、西谷さんは後方へ向かって私の体を投げ飛ばすようにしながら押し倒す。絞められた首と床に当たった背中がひどく痛んだ。
「ほら、少しは抵抗しろって。その方が興奮すっからさぁ」
西谷さんは笑いながら私の服を両手で切り裂く。布が破ける大きな音を聞いていると、まるで故障でもしたかのように心臓が高鳴った。西谷さんは大きく口を開け肩のあたりに噛みつくと、これでもかというほどに強く歯を立てた。血は出ない。それでもじわりと湧き上がる鈍い痛みに思わず小さく声を上げた。
私は両手を前に突き出し、西谷さんの体を強く押した。『少しは抵抗しろ』という指示に従った、抵抗する『ふり』だ。あくまで『ふり』なので本気で抵抗するつもりはない。本気で抵抗したところで彼の力に敵わないことは最初から分かっている。
西谷さんは私の腕を取って押さえつけるとあちこちに噛みついた。反対側の肩、二の腕、胸、わき腹、太ももの付け根など、至る所が痛み出し、きっと今の私は歯形だらけなんだろうとまるで他人事のように思う。いつしか歯型をつけるだけでは飽き足らず、肉ごとかじり取られてしまうのではないか。そんな風に考えたが、それもそれで良いのかもしれないなどと考えてしまう。
痛みなのか、喜びなのか、興奮なのか、なにが原因なのか分からない涙が溢れ、頬を伝う。西谷さんは相変わらずの不気味な笑顔のまま、こちらに顔を近付けて私の涙を舐めた。熱く濡れた舌が目元をゆっくりと這っていく。
「やっぱ、の味が一番たまんねぇわ……」
西谷さんは自分の口唇を妖しく舐めてから、ジャケットを脱いで床に放る。バサリと音を立てて落ちたそれはまるで抜け殻のようで、彼の本気はここからなのだと知らしめているように思えた。大きな手が私の首を掴み、締め上げる。そのまま口唇を塞がれて、息の根を止めるかのように舌が入ってきた。
いつかそう遠くない未来に、私は西谷さんに抱かれながらベッドの上で死ぬのだろう。殴られて蹴飛ばされて噛みつかれて、殺される。それでも彼にいたぶられるのが好きだ。いや違う。私は彼が、西谷さんが好きで好きでたまらないんだ。
(2023.11.15)