※原作 第四章『笑い男』 三代目西谷戦直後の設定
流石の姐さん
浄龍という身元不明の男との喧嘩に誉が負けかけ、結局決着が付かずじまいになったという話を聞いた時は一瞬耳を疑った。しかしそのすぐ後に私が考えたことと言えば、ああこれは厄介なことになったという懸念だった。私を呼びに来た名前も知らない鬼仁会若衆の顔を見て全てを察する。誉が久しぶりに『盛りのついた猫』になってしまったということに。
「誉はどこに居るの?自分の部屋?」
わざとらしくハァと大きく溜息をつくと、若衆の男は慌てた様子で何度も頷いて見せる。
「いやぁもう、俺たちじゃどうにもできんのですわ。渡瀬組の鶴野のカシラがなんとかしてくれはると思おとったんですが……。やっぱの姐さんやないとアカンみたいで」
何が『の姐さんやないとアカン』だ。心の中でだけ悪態をつく。確かに私と誉は古い付き合いだし、お互いのことはそれなりに知っているし、何より私は誉のことを大事に想っている。だからって暴走している誉を止めるなどという嫌なお役目などやりたくはない。しかしあの渡瀬組の鶴野さんですらさじを投げた状況なのであれば、私が出向かないわけにもいかないのだろう。
重い脚を引きずるようにしながら誉の私室に向かった。襖の前で声を掛けようとした時に嫌な予感が体中を駆け巡る。中から何かを投げ飛ばすような大きな音や振動、言葉にならない叫び声などが聞こえたからだ。
「ねぇ、誉。開けて良い?だけど」
出来るだけ大きな声で部屋の外から問い掛ける。響いていた物音と怒号がぴたりと止まり静寂が訪れた。すると次の瞬間、襖がほんの少しだけ開けられ中から手が伸びて来る。血のにじんだ青いスーツ。それが誉の腕であるということはすぐに分かった。誉は私の腕を掴むと部屋の中に引きずり込み、そのまま音を立てて襖を閉める。私の腕を引っ張りまるで放るかのようにしながらベッドに押し倒した。
「来るのが遅せえんだよ、」
誉はこちらに顔を近付け凄みながら低い声で言う。それが愛する恋人に対する態度だろうかと思うも、これ以上面倒なことにしたくなかったため何も言わなかった。
胸倉を掴まれて上半身が軽く浮く。誉は私の服を音を立てて引き裂きながら首元に噛みついた。いま着ている服はこの間買ったばかりだ。また新しい服を買わなければならないのか。そんなどうでも良いことを考えながらなんとなくすぐ横の床に目線を落とすと、そこには見覚えのある置物が転がっていた。
「あ!」
思わず大きな声を上げる。私の声に驚いたのか、誉は手を止めてこちらを見た。視線の先にあるのは一体の招き猫の置物。恐らく誉がこの部屋で大暴れをした際に床にでも落ちたのだろう。招き猫の最大の特徴である招く腕の部分がぽっきりと折れてしまっていた。
「ちょっとこれ!私たちの招き猫!」
腕からすり抜けるようにベッドから降りて招き猫の元へ向かう。床に落ちたそれを両手で拾い上げると当時の想い出が蘇った。この招き猫はかなり昔に誉と一緒に行った街で買って貰った。キャッスルを手に入れるよりもずっと前のことだ。
「ねぇ……、手が折れちゃってる。ひどいよ」
折れた腕の部分を手のひらに乗せて眺めると悲しさが増す気がした。床にはいくつかの破片が散らばっており、腕を本体の猫にくっ付けるのは難しいということが分かる。
肩に何かが触れる。誉の手だった。彼はいつの間にか同じようにベッドから降りて私の肩を抱き寄せる。思わず顔を見たが、その表情はいつも通りの目を細めた笑い顔だった。
「大丈夫だって。そんなんまたいくらでも買ってやっから。な?」
「そういう問題じゃない」
誉の表情と言い草が頭に来て、肩に触れていた手を振り払う。
この招き猫は私にとって特別だった。買って貰った日のことは昨日のことのように覚えている。誉と歩いた夜の街に響く喧騒はとても騒がしくて、道は汚くて、人々は鬱陶しくて、それでも一緒に見たネオンは今まで見たどの夜空の星よりも綺麗だった。まだ駆け出しだった私たちが明日も生きていられますようにと願いながら買った大事な招き猫だったはずなのに。
今でこそ誉は鬼仁会の会長になって、彼に逆らう者は居ない。そんな立場や権力を手に入れられたのはこの招き猫のお陰なのだと思っていた。私たちが手を取り合い、地べたを這いずって必死に生きて来た結果なのだと思っていた。招き猫はそんな私たちとずっと一緒に居てくれた大切な想い出の一つなのに。
「なんだよ、泣くなって……、ったくめんどくせえな……」
そう言われて初めて自分が涙を流していることに気が付いた。誉の両手がこちらに伸びて来たかと思うと優しく顔を包まれ、頬に伝った涙を舐め取られる。熱く濡れた舌の感触と誉の吐息に胸の奥が狭くなった。
「なぁ、悪かったって。機嫌直してくれよ」
誉は謝罪の言葉を口にしているものの、先程の『めんどくせえな』という言葉通りに私のことを至極面倒臭い奴だと思っている。誉はいつもそうだ。私のことを心の底から面倒な女だと思っているくせに、突き放したりせずにこうしてそばに置いてくれている。横暴な態度を取った後は必ず顔色を窺うし、乱暴なことをした後は必ず優しいキスをくれる。
綺麗な顔が近付いて来て口唇が重なった。誉の手が伸びて来て私の耳を塞ぐように頭を支える。それに応えるように誉の首元に手をやり、喉仏を指でなぞった。シャツの部分に血が滲んでいる。浄龍という男と喧嘩をした際の傷がまだ塞がっていないのだろう。
「まだ血が出てるよ。手当てしなきゃ」
触れ合っていた口唇を離しながら言うと、誉はそれを許さないとでも言うように私の顎を持ち上げ、自分の方へ引き寄せた。
「そんなん後でいい」
再び口唇が重なる。隙間からねじ込むように舌が入り込んできて、卑猥な音が部屋に響き渡った。ふわふわとする脳内の端で、あれ?そういえば私は何しにここに来たんだっけ?と考える。暴走する誉を治めるどころか逆に私が治められてしまったこの状況に、苦笑いするしかなかった。
その後、誉は何とか落ち着きを取り戻し、鬼仁会の組員たちは安心したように皆がホッと息をついていた。何人かに「流石の姐さんですわ!西谷さんを治められんのはやっぱ姐さんだけなんスね!」などと褒め上げられたが、事の顛末を知らない彼らには「まぁね!」とだけ言ってしたり顔をしておいた。
(2023.12.20)