塗り潰すなら臙脂えんじ

 いくらでも愛してやったはずだった。いくらでも抱き締めてやったし、いくらでもキスしてやった。愛撫してやることも喘がせてやることも隣で眠って一緒に朝を迎えることだって、いくらでもしてやったはず。それなのに。

 あの女が俺の元から消えたのは、キャッスルでの生活199日目のこと。あと1日できりの良い200日に到達するはずだったのにゼロに戻った。全てはあの女、が原因だ。

 蒼天堀という街は俺にとってはあまりにも窮屈だ。キャッスルを手に入れる前はここで生きていたなんて、今では信じられない。がこの蒼天堀で目撃されたという情報を掴んでから、俺がキャッスルを降りる決断をするまでは一瞬だった。あれから数日。まだは見つかっていない。

 汚い月、汚い空気、汚い街。深夜に近い時間帯であるにも関わらず、右へ左へと沢山の人々が行き交う。を探すのにはあまりにも邪魔だから、全員殺してやりたい。そんなことを考えていると、人ごみの中に見覚えのある姿が見えた。目を凝らす。

 乾いた風を受けて艶を失った髪。まるで枯れた枝の如く貧相で細い手足。世の中のありとあらゆる不幸を背負っているかのような背中。幽霊と見間違いそうな後ろ姿であるのに、その女の周りだけが妙に光って見える。光と言っても神々しく眩しい光なんかじゃない。汚すぎる夜の街でぼんやりと、もやがかかったような、今にも消え入りそうな情けない光だ。



 叫ぶでもなく、至って普通の声量で名を呼んだ。騒がしいこの街では俺の声などどこかに吸い込まれて消えてしまいそうなのに、の歩みが止まった。声が届いたのかどうかは分からない。ただはゆっくりとこちらに振り返って、俺を見た。目が合う。

 は俺を俺と認識し、大きく目を見開いた。それと同時に何の迷いもなくその場から駆け出す。逃がさねえよ。声に出さずに呟き、俺もその場から走り出した。人の合間をぬって小さな背中を追いかける。

 右肩、左腕、脇腹、体中に誰かがぶつかってくる。なりふりかまわず走り続けると、すぐにに追い付いた。手を伸ばして腕を掴む。力を入れれば簡単に折れてしまいそうなそれを強く引くと、の体が俺の方へと倒れ込んで来た。背中に腕を回し、骨が軋む音が聞こえてきそうなほどに強く抱き締める。このまま背骨でもへし折ってやろうか、なんて考えた。

「おいおい、なんで逃げんだよ、ツレねえなぁ」

 背中を優しく撫でてから、の顔を覗き込む。まぶたが震え、目が泳いでいた。怯えたような表情で俺を睨む。恐怖と怒りが混ざり合った顔にひどく興奮した。俺から逃げられるわけなんかない。それでも必死に抵抗しようとしている姿があまりにもいじらしい。

「ったく世話掛けやがって。ほら、帰んぞ」

 肩を抱いて歩き出そうとするも、の脚は地面に根を張ったかのように動かない。顔を見ると眉間に皺を寄せ、下口唇を噛み、目を伏せていた。苦しそうな表情で最後の抵抗をしている。まるで駄々をこねる子供みたいに。

「なぁ……、よぉ?」

 ハァ、と大きく息を吐く。女ってのはこれだからめんどくせえんだ。そんなことを考えながら、の髪を撫で、そして頬を撫でる。細く小さな肩が揺れ、戸惑いの瞳が俺を見上げた。恐怖、怒り、悲しみ、怯え。この女が俺に見せる感情の全てを魅力的に感じる。今すぐグチャグチャにしてやりたい。

「俺はもう、今後一生、お前のこと逃がさねえから。……な?」

 低く唸るように、それでいて優しく囁いた。顎を思い切り掴んで顔をあげさせると、色気のない口唇に噛みつく。味も、潤いも、愛情もないこの口唇で、夜が明けるまで何度でも俺をののしればいい。何度でも俺の名を呼べばいい。そしていつか、俺なしで生きられなくなっちまえばいい。

「くたばれ……、西谷誉」

 口唇の隙間から唾液混じりの罵倒が聞こえた。口唇ごと口に含んで、頭から噛み付いて、肉も骨も全てを噛み砕いて咀嚼して飲み込んでやろうかと思う。俺はよく聞かせるようにわざとらしく喉をゴクリと鳴らし、愛しいその声を飲み下した。


‎(2025‎.7.8)‎