切歯

 趙に敬語を使い始めたのは何歳からだっただろうか。幼い頃からずっと傍で過ごして来た私たちは何でも言い合える幼馴染だったはずなのに、横浜流氓の総帥になった趙は私とは住む世界が違う人間になったように思えた。

、今日が何の日か知ってる?」

 突然私を呼び出した趙は、片脚を椅子に乗せて行儀悪く座っていた。相変わらずのにやけ顔で、部屋の出入口近くに立ち尽くしたままの私に向かって手招きをする。まるで“もっと近くに来なよ”とでも言うように。

「今日は二月十四日……、ああ、バレンタインデーですか」

 私は趙の促しを無視して近付くことなく、日付が表示される自身の腕時計をその場で確認しながら言った。わざわざ自室に私を呼び出して、「今日が何の日か知ってる?」なんて白々しく聞くなど、言いたいことはすぐに把握できた。恐らくバレンタインの贈り物を催促しているのだろう。

 中国ではバレンタインデーに男性から女性に贈り物をするため趙の催促は間違っているように思えた。しかしいま私たちが居るこの国は日本だ。日本の文化に習うのならば女性から男性に贈り物をしてもおかしくないのかもしれない。

「申し訳ありませんが、私から趙さんにお渡しする物はございません」

 わざとらしすぎて逆に失礼になりそうなほど丁寧な口調で言い、趙に向かって頭を下げた。

 大体、私はバレンタインなんて興味がないし、趙への贈り物なんて用意しているはずがない。誰も居ないように見えるこの部屋だってどこに誰が潜んでいるか分からないし、私のような位の低い人間が趙に贈り物をしただなんて年寄り爺さんたち……、もとい幹部たちの耳にでも入れば面倒臭いことになるだろう。

 もう帰ってもいいかな、などと思いながら頭を上げると目の前に趙の顔があった。私が立っている場所からそれなりに離れた椅子に座っていたはずなのに、気配も音もなく近づくのはやめて欲しいと感じる。

「その話し方やめてくんない?二人っきりなんだからさ、もっと昔みたいに喋ってよ」

 趙は眉間に皺を寄せ、怒っているような悲しんでいるような複雑な表情をしていた。率直に、ああ面倒臭いなぁと思った。趙が面倒臭いんじゃない。自分のこの立場が面倒臭いのだ。

 趙と私は歳が近く生まれた時からほとんど一緒で、チャイニーズマフィアという環境の中ではお互いだけが唯一の友達だった。そして無駄に歳を取るにつれ、私の中の友情の気持ちは愛情に変わっていった。

 それなのに、趙が総帥になった途端にこれだ。“しきたり”がどうの“風習”がどうのなどと言う古臭い幹部どもは趙に敬語を使わないだけで色々と文句を言ってくる。「もっと昔みたいに喋って」だなんて人の気持ちも立場も知らないでよく言う。私だって、昔のような関係に戻れるなら戻りたいのに。

 何の言葉も声にならず、私はただ趙を見つめたまま口を結ぶ。すると趙は鼻で長い溜息をつきながら、こちらに腕を伸ばし私の手を取った。

「その話し方をやめないなら、俺にも考えがあるけど?」

 強い力で手を握られ、痛みを感じた私は思わず眉間に皺を寄せた。その言葉の意味を考えるよりも先に趙は私の手を自分の口元へ持っていき、指先をかじる。一瞬、何が起きたのか分からずに頭が真っ白になったが、自分の指先に走った軽い痛みに思わず声を上げた。

「痛っ……!ちょっと、なにしてるんですか!?」

「え?バレンタインのプレゼント貰おうと思って」

 あっけらかんとした様子で趙はそう言い、そのまま私の指先をもう一度かじる。先ほどは甘噛み程度だったため子犬に指を噛まれたような物だと思ったが、今度は強く歯を立てて噛みつかれ鈍い痛みが走った。血は出ないであろうが噛み痕は残るだろう。

「ちょっと、やめてください。痛いです」

「当たり前じゃん。痛いようにしてるから」

 ふざけてる。そう思ったが口には出せなかった。指先をかじっていた趙はそのまま私の両腕を掴み動きを拘束すると、首元に顔を埋める。熱い息が吹きかかり心臓が止まりそうになったが、新たな痛みでそれは阻止される。趙は指の次に、今度は私の耳をかじりだした。

 甘い痛みと緊張と混乱で頭がおかしくなりそうだった。くらくらとしためまいを感じ視界が歪んでいく感覚がする。痛いだとかやめてだとか、そんな抵抗の一言すらも口から出て来ない。

「バレンタインのチョコくれないなら、の物何でも良いからくんない?指でも耳でも、それこそお前自身でもなんでも構わないけど俺は」

 趙はそう言いながら顔を上げ、自身の口唇を舌でぺろりと舐めてから私の目を見つめた。先程と同じように私の口からは何の言葉も出て来ず、歪んだ視界で趙を見つめ返すことしか出来ない。

「黙ってないで何とか言ってよ。バレンタインなんてくだらないとか、幹部の爺さんどもはクソだとか、……俺が好きだとか、さ」

 大きく固い趙の手が私の顎を強く掴み、そのまま口唇を塞いだ。ずっと浅かった呼吸が更にキスによって止められ、このまま死んでしまうのではないかという程に苦しくなる。合間で必死に息を吸おうとするも上手くいかず、口唇を甘噛みする趙の歯と熱い舌の感触で気を失いそうになった。

 私の想いなんかとっくに趙は見透かしていたんだ。昔のような関係に戻れるなら戻りたい、昔のように一緒に過ごしたい、趙のことがずっと好きで、私をあなたのものにしてほしい。そう考えていたことの全てを。

 やっと口唇が解放されると私は不格好にぷは、という声を出しながら必死に息を吸った。足元がふらつき、へたりこみそうになるのを必死にこらえながら趙の腕にしがみつく。

「ねぇ、俺いつまで待たなきゃいけないの?早く言ってよ、ほら」

 趙はしがみつく私の背に手を回し、強く抱きしめる。耳元にある趙の胸から心臓の音が聞こえてきて、それは私ほど早くはないものの、とても強い鼓動に聞こえた。顔を上げると、目の前の趙と目が合う。未だ浅い呼吸で必死に息をしながら、私は小さな声で呟いた。

「趙が、好き」

 それを聞くなり、趙はどこか満足そうに口角を上げると、目を細めて「よくできました」と低く囁いた。気持ちを見透かされていたことも、好きだと口にしてしまったことも、すべてが趙の手のひらで踊らされているようで少し悔しくなる。

 バレンタインデーも、口うるさくて頭の固い幹部の爺さんどもも、大好きな幼馴染も、どいつもこいつもみんなくそくらえだ。そう思いながら私は背伸びをし、趙の口唇に噛みついた。


‎(2021‎.‎2‎.14)‎