欲しいのは火花
趙さんの元へ向かおうと通りかかった異人通り近くの路地裏で、二匹の猫が喧嘩をしていた。一方は食欲がそそるにおいがしてきそうなほどに香ばしい色をしている茶虎柄で、もう一方は白い毛に黒い模様が入っているブチ柄だ。まるで不良がメンチを切っている時のように顔を近付けて、お互いにみゃあーお、みゃあーおと長く鳴いている。
例えばこの猫たちが人間の男性同士ならば『なに見てんだテメエ』だとか『喧嘩売ってんのかコラ』だとか言い合っているのだろうと想像する。男性同士ではなく異性同士なのであれば『言いたいことがあるなら言えよ』だとか『あなたっていっつもそう』だとか言い合っているのかもしれない。
その様子を見ながら考える。そういえば私と趙さんは喧嘩をしたことがあっただろうか。喧嘩といっても暴力を伴うものではない。口論と言った方が正しいかもしれない。しかし口論と一口に言ってもそれはそれで『言葉の暴力』を伴う可能性もあるので『暴力を伴うものではない』とも言い難い。我ながら面倒臭い思考を持っているなと自虐したくなってしまった。
「というわけで、今から喧嘩をしてみませんか?趙さん」
佑天飯店にて、趙さんと顔を合わせるなりに言う。大前提である『趙さんと喧嘩をしたことがないのでしてみたい』という願望を話さずに切り出したせいか、趙さんは椅子に腰を下ろしたまま無表情をこちらに向けた後、すぐに目を細めて眉間に皺を寄せた。
「俺、女の子に暴力振るう趣味とかないんだけど」
怪訝そうな表情をしながらも、趙さんはフンと鼻で笑いながら言う。顔の前で手を振りながら「いや、そうじゃなくて」と切り出した。趙さんのすぐ隣の席に腰を下ろす。
趙さんとの付き合いはそれなりに長い。私たちは恋人同士でありながらも上司と部下という関係だったため、仲を深めることが出来ずにいた。しかし趙さんが総帥の座を降り、佑天飯店の店長というポジションにおさまったことで距離はぐっと縮まったような気がする。私が趙さんに敬語で話すのは昔からの癖が消えないせいだった。
私と趙さんが喧嘩をしないのは、趙さんが横浜流氓の総帥という立場だったからなんだろう。下っ端である私は趙さんの言うことには逆らえない。彼が黒と言えば白い物も黒くなる。とは言え、趙さんはそこまで横暴な頭目ではなかった。少なくとも私にとっては。
そもそも趙さんは私が嫌がることを絶対にしない。例えば私が趙さんの行動を気に入らず注意したとしても、彼は反発することもなく「そっか」とか「分かった」とか軽い返事で了承する。逆に私も趙さんが嫌がることは絶対にしないし、彼に反発するようなことも絶対にない。
「喧嘩するったって、必要性も原因もないじゃん。だから俺たち今まで喧嘩しないで仲良くやってこれたんでしょ?」
趙さんの言い分はもっともだった。そう、私たちには喧嘩をする必要性も原因も存在しない。だからこそ私は『なんか良く分からん理由で言い争うカップル』に妙な憧れを抱いてしまうのだ。
「じゃあ、趙さんが浮気したって設定にしましょう」
人差し指を立てながら提案する。趙さんはテーブルに頬杖をつき、私の顔を覗き込むようにしながら「はぁ?」と間抜けな声を上げた。
「なぁんで?ヤだよ。俺以外の女に興味ないもん」
いやだから『設定』って言ってるじゃないですか。そう声に出して言おうとしたが飲み込む。きっと趙さんは『設定だとしてもイヤなの』と反論してきそうだと思ったからだ。
「じゃあ、私が浮気したって設定に……」
「そんなの喧嘩うんぬんの前に殺すよ?相手の男を」
話している途中で間髪入れずに言われる。『相手の男を殺す』という物騒な言葉に思わずぎくりとし、趙さんの顔を見る。とてもにこやかな笑顔だったが、彼なら本当に実行しかねないと思うと少しだけ背筋が寒くなった。
「じゃあ、何でもいいんで私が嫌がることしてください」
「あのねぇ、好きな子が嫌がること進んでするような男に見える?俺」
はっきり言ってしまえば私はただ『喧嘩ごっこ』をしたいだけだ。趙さんは『ごっこ』ですら私と喧嘩したくないということなんだろう。自分の気持ちが伝わらないことにもどかしさを感じ、私は目の前のテーブルを手のひらで軽く叩いた。
「もう!これじゃ喧嘩できないじゃないですか!趙さんってば空気読めないんだから!」
「そんなこと言ったってしょーがないでしょ。だって少しは俺の気持ちくんでよ」
ああ言ったらこう返されてしまい、思わず口をつぐんだ。体の奥からじわじわと怒りに似た感情がわいてきて、口を尖らせながら眉間に皺を寄せる。目の前に居る趙さんを睨みつけ、見つめ合った瞬間にとあることに気付いてハッとした。
「もしかして、私たちいま、喧嘩、……してます?」
どうやら趙さんも私と同じように気付いたようで「あ」と小さく声を上げた。先ほどまで胸を満たしかけていた怒りのような感情も、まるで湯を満たした浴槽の栓を抜いた時かのように何処かへ流れ出ていってしまう。一瞬でも趙さんと喧嘩をするという体験が出来た喜びと、何だかんだそれが達成できてしまったあっけなさに自然と口角が上がる。趙さんもつられるように笑っていた。
「じゃあ、とりあえず、仲直りのキスでもしとこっか?」
趙さんはまるで子供のような無邪気な笑顔を見せる。私の返答を待たないまま、あっという間に顔が近付いて来て柔らかな口唇が触れ合った。口唇と口唇が一瞬触れ合うだけの軽いキス。物足りなさを感じつつも、その想いを口に出して伝えることははばかられた。しかし趙さんは私の表情を見て全てを察したようだった。
「これが俺たちの、最初で最後の喧嘩だね」
ごつごつとした指輪をいくつも付けた指に私の髪が絡みついていく。趙さんは変わらない笑顔のまま私を頭ごと引き寄せて口唇を塞いだ。
例え偽物の喧嘩だったとしても『仲直りのキス』というものはこんなにも心地良いものなのかと考えてしまう。趙さんは『最初で最後』と言ったけれど、こんな気持ちになれるのならたまには喧嘩ぐらいしても良いのかもしれない、と不埒なことを考えた。
(2024.3.18)