本当はお前が狩人

 馬鹿みたいに能天気な笑顔で「好きな人が結婚しちゃったんですよ」とは言った。でもそのへらへらした表情のそこかしこに悲しみを携えているように見えた。まぁ当然と言えば当然だよなぁ、なんて呑気に考える。

 ぶっちゃけた話、俺は、チャンスだと思った。が長年片想いしていた相手がついに結婚をした。そうなればはそいつを諦めるほかない。惚れている女が傷付いている今の状況を喜ばしく感じている俺は最低な男だと自分でも思う。しかしまぁ、横浜流氓の総帥という立場上それなりのことはしてきた身だ。こんなこと今更かもしれない。

 今ならは俺を見てくれるかな。いやそんな悠長なことなんて言わずに何かしらの事を起こして既成事実でも作ってしまえば、は俺を見ざるを得ない。の傷心につけこんでこんなことを真っ先に考えた俺は確実に最低な男だ。

 落ち込んでいるのであろうに「気晴らしに飲みに行こう」と声を掛け、行きつけのダーツバーに誘った。店に着いたはじめこそダーツを楽しんでいたけれど、しばらくすると飽きたのか疲れたのか、はテーブルに突っ伏してちびちびと酒を飲んだ。何度もキスをするかのようにグラスに口をつけるその合間で、何かしらをブツブツぼやく。その内容はほとんどが例の男のことのようだった。

「ずっと好きだったのになぁ。もう何年片想いしてたか忘れちゃいましたよ」

「うん」

「相手の女性、すっごく綺麗な人なんです。私じゃ逆立ちしたって敵わないくらい」

「うん」

 のぼやきには適当な相槌を返した。『ずっと好きだったのに』。『私じゃ逆立ちしたって敵わない』。馬鹿馬鹿しい話ばかりが俺の左耳から入って右耳へと抜けていく。ここにお前みたいな女に何年も惚れてる男が居るよ。この世の誰よりもが綺麗だと思ってて、この世の誰よりもじゃなきゃ嫌だと思ってる。そんなどうしようもない俺みたいな男が居るよ。今すぐ口に出して言ってしまいたかった。

「ねぇ趙さん?話聞いてます?聞いてないでしょ?今日はそっちから誘ってくれたのに」

「何言ってんの。ちゃあんと聞いてるよ?」

 俺のバレバレな嘘に、は素早く顔を上げた。口をへの字にして、何かしらの不満を顔に塗りたくったかのような表情で俺を睨みつける。そんな顔すらも愛おしくてたまらない。鼻でフ、と笑う俺に対し、は諦めたように大きく溜息をつくと、再びテーブルに突っ伏した。

 はっきり言ってしまえば話の内容なんかどうでもいい。誰かしらに叱られて不貞腐れる子供かのように、口を尖らせ不機嫌そうな顔をしているが可愛かった。をそんな表情にさせたのは、その『結婚してしまった長年の片想い相手』である男ではなく、この俺なのだという事実がどうしてか誇らしかった。

 カウンターに居るバーテンに向かって手を上げる。マティーニを二つ注文した。俺のグラスは既に空で、透明なそれが寂しげに店の僅かな照明を反射している。のグラスにはまだ酒が残っているが、ちびちびと飲んでいるせいで減るスピードは亀のように遅い。

 ほんの数分後に小さなグラスが二つ、静かに運ばれてきた。串に刺さったオリーブは頼りない色であるのに、無色透明の液体の中では妙に主張が激しい。テーブルに突っ伏していたはそれを見るなり顔を上げた。丸く柔らかそうな頬に腕の痕がついてしまっている。可愛いなぁと心の中で呟く。

「マティーニかぁ、未だにキツいんですよねぇ、私。昔よりは飲めるようになってるはずなんだけどな」

 以前までのは酒にそこまで強くはなかった。しかしいつの間にかそれなりに飲めるようになっていた。俺の知らない間に同僚やら友人やら、例の男とやらと飲んでいたのかもしれない。

 の指がマティーニの入ったグラスに触れる。薄いピンク色のきらびやかな爪が、冷え切って結露したグラスの向こう側で滲んだ。爪と似たような色をした口唇とグラスが優しくキスをして、透明の液体がの喉を通っていくのが分かる。長く濃いまつ毛に縁どられた大きな瞳が細められ「やっぱ、キッツい」という小さな独り言が聞こえた。目が合った。

「趙さんってば、私を酔わせてどうするつもりなんですか?」

 そう言ってフフ、と小さく笑う顔は冗談めいていた。『なんだか酔っちゃったみたいだわ』だとか『今夜は帰りたくないわ』だとか、酒に酔った女が男に寄り掛かる時に言うような古めかしい台詞。まるで悪戯をした子供のような表情のは、こんな台詞一度は言ってみたいですよねという言葉を付け加えてきそうだった。

「そりゃ、どうにでもしたいよ。のことは」

 何も考えないまま、ただ本音だけが口から吐き出された。

「これでもかってくらいに酔わせたらさぁ……、は、俺に、どうにでもされてくれんの?」

 テーブルに置かれたもう一方のグラスを手に取り口を付ける。酒が喉を通り胃に落ちると、不安定な何かを表すかのように緑の実がゆらゆら揺れる。グラスを元の位置にくるいなく置くと、の肩を掴み自分の方へ引き寄せ、身を乗り出す。ぶつかり合うように口唇が触れた。強い酒のにおいがする。

 俺は最低な男。自分の惚れた女が失恋して傷付いた。そしてその傷の裂け目から無理矢理にでも中に入り込もうとしている。好きだとか言ってみたり、愛しているとか言ってみたりしたいと思っている。キスをしたりハグをしたり、肌に直接触れたりそれ以上のことも全部したいと思っている。このままホテルにでも連れ込もうか?の家にでも転がり込もうか?それとも、俺の家に閉じ込めちゃおうか?そんな下心丸出しのみっともないことばかりをずっと、ずっと考えている。

 失恋を癒すのは新しい恋、だなんて言うけれどあんなのは嘘だと思う。ただ失恋で傷付いた心に他の誰かが卑猥な音を立ててずぶずぶと入り込むだけの話。例えそれが汚いとか卑怯とか言われてもそれでいい。俺はの心に入り込めるならそれでいい。俺は、をどうにでも出来るなら、それでいい。

「趙さん、あの、」

 僅かな抵抗を遮るように再び口唇をぶつけた。今度はさっきよりも強く深く。付け入るタイミングは完璧。さっさと落ちちゃえよ、俺に。そう願いを込めながらアルコールの残る苦い口唇を舐める。これでもかというほどに酔いそうなのは、たぶん、俺の方だ。


‎(2024‎.‎5‎.‎1‎‎‎)