Precious Memories
育ての親である春日次郎がこの世を去ってから、俺は暴力に溺れた。大人であれば酒に溺れることも出来ただろうが、当時の俺の舌はまだまだ未熟でそれも出来なかった。毎日のように臭くて汚い神室町をあてもなく歩き回り、目についたり癇に障る奴が居れば手当たり次第に殴って金品を奪った。こんな生活を続けていればいつか罰が当たるだろうとどこか他人事のように思いながらも、やめることは出来なかった。何人居ようが、どんな強い奴だろうが、負ける気がしなかった。
昨日はチンピラ二人、今日は三人の不良男どもを相手にした。当然ながら奪えた金額も今日のほうが多いが、同時に傷の数も多い。この顔で桃源郷に戻ると誰かに何かを言われそうで気が引け、神室町にあるいつもの公園に寄り、とりあえずはベンチに腰を下ろした。口の中に鉄の味が広がっているのが分かる。一度水でゆすいでおくかと思いながら公園内にある水飲み場を見るために伏せていた顔を上げると、目の前にが居た。
は何も言わずに俺を見下ろしていた。表情は怒っているような悲しんでいるような複雑な物だった。しかし付き合いの長い俺にはコイツが考えていることがなんとなく分かる。荒れ果てたどうしようもない俺に説教でもしたいんだろう。
「……なんだよ」
くだらないお叱りの言葉なんてやめてくれよ、と口に出して言おうとしたが、やめた。は俺の言葉に何の返答もせず、黙って隣に腰を下ろした。古くさび付いたベンチが不快な音を響かせる。よく見ればは手にビニール袋を持っており、そこへ手を突っ込むと中から絆創膏や消毒液を取り出した。そして何も言わないまま俺の顎を乱暴に掴み、引っ張る。強制的に顔が近くなり心臓がうるさく鳴った。
「お、おい。なにすんだよ」
「手当てすんの。そんな顔じゃ家に帰れないでしょ」
は自身のポケットから綺麗なハンカチを取り出し、俺の頬に当てて血を拭いた。それは俺の血か、それとも先ほど叩きのめした奴らの血なのか分からずに居たが、ハンカチを当てられた部分に僅かな痛みを感じたため、自分の血だったのだと今更ながら気が付いた。肌に触れる柔らかな感触と覚えのある甘い香りに気分が落ち着いてくる。
「一番。もうやめなよ、こんなこと」
まるで独り言のようにが呟いた。俺は思わず顔を見たが、は目をそらすかのように顔を伏せ、手元の絆創膏の箱を開ける。
「一番がこんなんじゃ、おじさんだって安心して眠れないよ」
『おじさん』。それは俺の育ての親である春日次郎のことだ。血の繋がりのないようなどうしようもない俺をこの年まで育ててくれた大切な父ちゃん。俺がいつまでもこんな生活を続けていては父ちゃんだって成仏出来ないかもしれない。そんなことは自分でも良く分かっていた。父ちゃんの名を出され、ますます俺は何も言えなくなり、黙り込んで下口唇を噛むことしか出来なくなる。
「ねぇ、とりあえずちゃんと学校とか行ってさ、普通の友達作りなよ。私だっていつまでもこうやって手当てしてあげられるわけじゃないんだから」
その言葉は聞き捨てならないものだった。思わずの顔を見たが、呑気にも絆創膏の外袋をゆっくりとはがしている。そしてそれを俺の頬に貼った。こんなにも近くに居るのに、どうしてか目線が交わることがなかった。その様子を見た俺は何となく感じた。も父ちゃんみたいに、いつか俺の前から姿を消すんじゃないかと。俺の許可なく、いとも簡単に。
「……ずっと手当てしてくれよ」
無意識に言葉がこぼれたが、後悔なんか一つもしなかった。は手を止めて真っすぐに俺の目を見る。その表情から察するに驚いているようで、目を丸くしたまま小さく「え?」とだけ呟いた。もどかしさを感じ、俺は手を伸ばしての胸倉を掴んむと自分の方へ引き寄せた。ただでさえ近かった顔が更に近くなり、俺は耳の辺りに口唇を寄せる。ハンカチと全く同じ、優しくて甘い香りがした。
「他の奴となんかつるむんじゃねぇ。俺の知らねぇ男のモンなんかになったりしたら、ぜってぇ許さねぇからな」
俺はただ、顔を合わせればくだらない話をして、俺が怪我をすれば優しく手当てをしてくれる、そんなに傍に居て欲しかった。隣に居て欲しかった。も父ちゃんと同じように俺の前から消えてしまったら、それこそきっとどうにかなってしまうだろうという確信があった。
は俺の言葉に何の返答もせず、なんの反応も見せなかった。引き寄せていた手を緩め顔を見ると、は真っ赤になっていた。俺が先程まで口唇を寄せていた耳までもが赤く染まっている。細かく瞬きをしている目は泳ぎ、まるで魚のように口を閉じたり開いたりを繰り返しているその姿は、間抜けで、あまりにも可愛かった。
「ば、……馬鹿、じゃないの」
真っ赤な顔の真っ赤な口唇がやっと言葉を発する。その声は上ずっていて、震えていて、が動揺しているのは火を見るよりも明らかだった。
「一番以外に仲の良い男子なんか居ないよ。居るわけないでしょ。私には幼馴染のあんたしか居ないんだから」
の目は泳ぎ続けたまま俺の顔を見ようともしない。その真っ赤な顔にキスをしてやりたかった。力いっぱい抱き締めて『お前が好きだ』と言いたかった。すかしたガキだった俺には、それが出来なかった。
それから俺は荒川の親っさんと出会い、極道の道へと足を踏み入れた。その後もとは付かず離れずの関係を続けていたが、俺が刑務所に入ったことで連絡が途絶えた。今、何処で、何をしているか、誰と一緒に居るのかすらも俺は知らない。は昔から食い意地ばかりはっていて、中華料理が好きだったため将来は中華街に住む、なんて言っていた。もしその夢を叶えたのなら、俺たちは案外近くに居たりするのかもしれない。この街のどこかですれ違ったりすることもあるかもしれない。
ガキのころから整った顔をしていたはますます綺麗な女になっているだろう。昔から必ずハンカチを持ち歩く癖は変わっていないのだろうか。あの優しく甘い香りを漂わせているのだろうか。今でも俺を忘れずに居てくれているだろうか。いつかまた顔を合わせることが出来たとしたら、あの日のようにくだらない話がしたい。俺の怪我を優しく手当てしてもらいたい。そして俺は、あの時言えなかった気持ちをに伝えたい。お前がずっと好きだった、と。
異人町の空は憎たらしい程に青く澄んでいた。今は昼間で星なんか見えないのに、まるで流れ星に願い事をするかのように心の奥底で何度も何度も呟く。この空の下に、この街に、が居たらいい。いつか会えたらいい、と。
(2022.11.14)