煙よりも噛んで
仕事を終え、店を出た時刻は夜の九時半。終電にはまだ時間があり、明日は何の予定も入っていない休日だ。どこかで少し飲んで帰っても良いかもしれないなどと考えながら歩いていると、足は自然と天下一通りに向かっていた。
神室町の中でも一際ネオンが眩しく感じてしまうこの通りは相も変わらず人通りが激しい。無意識に早足になりながらもふと目線を上げて立ち並ぶビルの上部を見た。道に面した窓に書かれたスカイファイナンスという文字が視界に飛び込んでくる。そこからは明かりが漏れ、まだ営業をしているのか、それともただ消し忘れているだけなのかと考えたが、恐らくは後者あたりなのだろう。どうせ秋山さんがだらだらと居残っているに違いない。
秋山さんの顔を少しだけ見てから帰ろうか。そんな考えが頭の中に浮かぶ。別に深い意味なんかない。一緒に飲みに行きたいとか、朝まで過ごしたいとか、そういう意味はこれっぽっちもない。ただ彼の顔を見て、軽く挨拶をして、他愛もない話をして帰路につく。ただそれだけで良かった。
ビルの裏手に回って階段をのぼる。ここは足音が大きく響くので、事務所に秋山さんが居れば誰かが来たことはすぐに分かってしまうだろう。なんとなくゆっくりとした足取りでスカイファイナンスの入口の前に立つと、音を立てないようにしながら扉を開けた。
「……こんばんは」
小さな声で控えめな挨拶をした。中からは煙草のにおいがしてきて、目と鼻の先にある来客用のソファが視界に入ってくる。秋山さんはそこへ横になり、寝息を立てていた。ジャケットも着たまま、靴も履いたままに眠り込んでいる。テーブルの上には灰皿が置いてあり、吸い殻が山のように積んであった。ここ最近の秋山さんは口癖のように「煙草やめようかな」などと呟いていたが、この吸い殻の山を見る限り一生無理なのではないかと思ってしまう。
私はソファの傍らにしゃがみこみ、秋山さんの顔を覗き込んだ。
「秋山さん、こんな所で寝てたら風邪ひきますよ」
肩に手を置き、軽く体を揺らす。しかし秋山さんからは何の反応なく、瞳はかたく閉じられたままだった。
はっきり言って彼はだらしない。シャツはよれているし、このままではジャケットがシワになってしまうだろう。それなのにひどい色気を感じるのは何故なんだろう。覗く首元に顔を埋めたくなるのは何故なんだろう。不埒なことばかりが頭に浮かんでしまうのは全て秋山さんが悪い。そんな風に考えて自分を正当化したくなる。
「……寝込みでも襲う気かな?」
ただぼんやりと秋山さんを眺めていた時、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。それは秋山さんの声だったが、彼は先程からずっと目を閉じたままだ。狸寝入りをされていたことに今更ながらやっと気が付く。
「いやぁ、ちゃんも意外と悪い子だねぇ」
「べ、別にそんなんじゃ……、てかいつから起きてたんですか」
「ついさっきだよ。きみが事務所に入ってきた時から」
最初から起きてたんじゃないか、と反論したくなりつつも、私が事務所に入ってきた時から起きていたというのなら、それは確かに『ついさっき』かもしれないと妙に納得もしてしまう。そんな“最初から起きていた”秋山さんは相変わらず目を閉じたままで、それどころかソファから起き上がろうともしない。
「まったく……、いいから早く起きてくださいよ。風邪、ひきますってば」
「……どうしよっかなぁ」
秋山さんは曖昧な言葉を口にしながらも、薄っすらと目を開けた。とろんとした表情が私を見つめて来て、思わず見とれてしまう。気が付くと煙草の香りが染みつく指先が私の頬に触れていた。
「きみが目覚めのキスでもしてくれたら、今すぐにでも起きるんだけど」
今までにないくらいに心臓が早く鳴り出す。そんな緊張状態を秋山さんに悟られたくなく、私は下口唇を噛み、心の内を顔に出さないよう努めた。
「もう、起きてるくせに」
私は秋山さんの胸倉を掴むと、身を乗り出して彼にキスをした。口唇と口唇が触れ合うだけの、“キス”と呼べるかどうかすらも怪しいものだった。微かに煙草の香りがして、胸の高鳴りが増す。耐えられなくなりすぐに顔を離すと、目の前にある秋山さんの顔ははっきりと目を開き私を見つめていた。
「んー……、悪くはないけど、不合格かな」
秋山さんはそれだけ言うと、私の首の後ろに手を差し込む。そのまま強く引き寄せられバランスを崩した私の口唇を秋山さんが塞いだ。驚きと混乱で息が上手く出来なくなったが、その僅かな呼吸すらも秋山さんの口唇が更に奪っていく。苦しくてたまらないのに、何度もうごめいていやらしく混ざり合うそれがひどく心地良かった。
やっと解放され、私は胸いっぱいに酸素を吸う。目の前がぼんやりとしてきて、倒れ込むように秋山さんの首元に顔を埋めた。彼の香りに包まれ、頭が更にぼうっとしてくる。
「ほらね。キスってのはもっとこう、情熱的にやんなきゃ。……でしょ?」
耳元に軽く息がかかり、同時に秋山さんの低い声が聞こえた。彼の表情は見えないが、きっとしたり顔をしているんだろう。悔しくてたまらない気持ちになったが、今はただ秋山さんの口唇の感触と、この香りに包まれて浅い呼吸を繰り返していたいと感じる。何も言い返さない私の髪を、秋山さんは優しい手つきで撫でた。
この人はずるい。寝たふりをしていたのも、こんな風にキスをするのも、髪を撫でるのも、何もかもがずるい。きっと私の気持ちなんてとっくの昔に気付いていたんだろう。首元のにおいをかぎながら、私はこのずるい男が好きで好きでたまらないのだと、改めて強く思ってしまった。
(2022.11.26)