落花
真斗の存在は私にとって全てだった。組の下っ端組員だった私の父はなんとか組長に取り入ろうと、真斗と同年代の私を『若の友人兼お世話係』として差し出した。自分は“娘”ではなくただの“道具”なのだとひどく悲観はしたが、真斗の傍に居る時だけは自分が自分で居られるような気がしていた。
真斗は人使いが荒いし、癇癪ばかり起こすし、病気により長らく車椅子生活だったため何かにつけては私に不便を押し付けた。しかし実の父親の“道具”で居る自分よりも、真斗の“道具”で居る自分の方がずっと好きだった。私は幼い頃からずっと、真斗に惚れていたんだと思う。
荒川組の若い組員さんが真斗のお付きになった頃から、私たちの接触は目に見えて減っていった。そしていつの間にかお互いがそれなりの年齢になっていた時期に、真斗はアメリカに渡り手術を受けた。車椅子生活から解放され、名前も荒川真斗から青木遼と変えた。人前であろうとなかろうと『真斗』と呼ぶことを彼は許してくれはしない。かと言って『遼』などと呼ぶ気も起きない。そのため私は彼を名前で呼ばなくなり、東京都知事という職業に就いてからは自然と『知事』と呼ぶようになっていた。
知事は今の地位についてからというもの、頻繁に私を自宅に呼び出すようになっていった。理由は家事をしろだの、身の回りの世話をしろだの、接待のホステス代わりをしろだの、どうでも良い内容が多く、私たちの関係は昔から全く変わらないのだなと実感する。
2月14日のバレンタインデーの日も、知事は私を自宅に呼び付けた。理由は知らないが何かしらの面倒ごとを押し付けられるのだろうということは安易に予想できる。バレンタインに会う約束をするような知り合いも恋人も私には居ない。何故なら私の心は全て真斗、もとい『知事』のものなのだから。
「バレンタインデーだってのに、一緒に過ごすような男も居ないのか、お前は」
知事の自宅にある無駄に広い書斎。そこにある座り心地の良さそうなオフィスチェアに腰掛けながら彼は言った。私は立っているため、知事はこちらを見上げる形になっているにも関わらず、何故か見下されているような気分になる。
そもそもこんな日に呼び付けたのはあなたでしょうと思うが、私は何も言わずに知事を真っすぐに見つめた。呼び付けにはすぐに駆け付けなくてはいけない。時間がかかると知事は不機嫌になり、『何をしていた』だの『誰と一緒にいた』だの質問攻めになるし、何より私への当たりが強くなるからだ。
知事の皮肉は最もだ。今日という日、私のスケジュールは空っぽで、知事に呼び出されたことを幸運に思ってしまうほど。知事に何の意図はないということは分かっているが、心の何処かで嬉しさを感じてしまう自分は本当に愚かだと思う。
私に“バレンタインデーに一緒に過ごすような男も居ない”のは確かだが、“バレンタインデーに一緒に過ごしたいと思う男は居る”というのも確かだった。そんなことを考えながら知事をじっと見つめる。私の気持ちは口に出来ないし、口にせずに伝わるとも思っていない。知事の眉間の皺が深くなるのが分かった。
「おい、」
名を呼ばれ心臓が跳ねたが、それを顔に出さないよう努めた。知事は座っていたオフィスチェアから立ち上がり、こちらに近付く。背の高い知事は私を見下ろす形になったが、その状況は先程と変わらないような気がしていた。座っていても立っていても、知事は私を見下している。哀れで、それでいて便利な奴隷女としか思われていないんだろう。
知事の腕が伸びて来て、私の顎を掴んだ。半ば乱暴に上げさせられた顔が近く、まるでキスでもされるかのような距離だった。
「随分と生意気な目だな。何様のつもりなんだ?」
声が荒い。こういう時は相当に怒っているか、いつもの冷静さを失っているかのどちらかだ。どうやら今日の知事はひどく機嫌が悪いようだ。何が彼をこんなに怒らせてしまったのか理解出来ず、混乱する。知事は何も返答しない私の顔をまじまじと見つめると、フッと鼻で笑った。
「お前を見てるとイライラするよ。昔の自分を思い出すからなんだろうな」
その笑いは、私と自分自身を嘲笑しているように見えた。私はこの人に惚れている。傍に居たい、役に立ちたい、女として見て欲しい。そう思っても彼は私を愛してはくれないのだろう。
「申し訳ありません、知事」
小さな声でそう言った。しかし私の心の中に謝罪の気持ちなど微塵も含まれてはいない。知事はそれを感じ取ったのか、私の肩を掴みデスクの上に押し付ける。背中の辺りに強い痛みを感じ、置かれていた花瓶が倒れ、美しかった花が無残に散っていく。
「お前なんかの謝罪で何が許されると思ってんだ?」
知事の手がゆっくりと私の首に移動する。彼の手は大きく、首を締め上げるのには片手で十分なのだろう。私は腕を伸ばして両手で知事の頬を包んだ。生きている人間のはずなのに恐ろしいほどに冷たく感じた。
顔を近付けてキスをしたい。骨が折れてしまうほどに強く抱き締めて欲しい。どんなに乱暴でも良いから私の体に触れて欲しい。そんな風に思うのも、今日がバレンタインデーならば許されるだろうか。チョコレートも、花も、美しくて高価な送り物も何もない。ただこの体を、心を差し出すから、私自身を差し出すから、私の言葉にほんの少しでも耳を傾けてはくれないだろうか。
「私、あなたがずっと好きだった、真斗」
声が震えてしまったことを自覚した。視界が歪み涙がこぼれる。悲しいわけでも、ましてや嬉しいわけでも決してない。何の感情からくる涙なのかが自分でも分からなかった。
「……」
真斗の声が名を呼ぶ。首に触れていた手は私の耳の辺りに移動し、顔を持ち上げるようにしながら口唇を塞がれた。涙は横に流れ、こめかみの辺りに沁み込んでいく。角度を変え深くなるキスの苦しさから、私は必死に真斗の体にしがみ付いた。口唇が離れたと同時に、真斗はまるで私を抱き締めるかのように髪に顔を埋める。
「二度と、その名前で呼ぶんじゃねぇ」
声は低く、まるで私を威嚇しているように思えた。耳に吐息がかかり理性を失いそうになる。私の言葉が彼に届いたのだろうかと、考えることも無駄でしかない。私は真斗の“道具”でしかないのだから、そんな“道具”が何を言ったところで、彼が応えてくれるはずもない。
顔を上げ私を見下ろす真斗がどんな表情をしているのかが涙のせいで良く見えなかった。しかしきっと軽蔑の眼差しを落としているに違いないんだろう。今までも、これからもずっと。
(2023.2.14)