さよならは言えない

 セレナーデ。それは音楽ジャンルのひとつであり、私がバイトするバーの店名でもある。なんでも店長の想い出の曲に『さよならセレナーデ』というものがあり、店名を『グッドバイ』にするか『セレナーデ』にするかギリギリまで悩んだのだと言う。店長の想い出なんか知らないし、セレナーデがどんな音楽を指すのかも分からない私にとって、はっきり言ってどうでもいい話だ。

 そんなセレナーデに、週に数回来店する客が居る。名前や年齢はもちろんどこの誰かも知らない。黒いスーツに身を包んだ体は背が高くがっしりとした肩幅で筋肉質。清潔感のある黒い短髪を後ろに持ち上げ額を出したヘアスタイル。彫が深く目力が強いという印象を受ける顔立ち。そしてしっかりとした太い眉の真ん中にこれでもかというほどの深い皺を刻んでいる。店の隅にある目立たない席に座り、ナッツをつまみにビールを飲み、煙草を吸う。いつも一人で。

 一度、珍しくカウンター席に座った彼に、バーテンダーが話し掛けたことがあるらしい。「いつもご来店ありがとうございます」。そう言ったバーテンダーに対し彼は低い声で「ああ」というたったの二文字を口にしただけだったという。「お仕事帰りですか?」だとか「この辺りにお住まいなんですか?」というような世間話も振ってみたが、彼はまるで貝のように口を閉じ何の反応も見せなかったらしい。あのお客さんはプライベートなことを詮索されたくないんだ。私も、他のバイト仲間も、そう思った。

 しかし私は彼が気になって仕方がなかった。初めこそ単純に男前だからという理由だったが、今は違う。いつも同じビールと味気ないつまみを力なく口へ運ぶ姿は、酒を楽しんでいるようには見えなかった。酒で何かしらのストレスを解消しようとしているようにも見えなかった。まるで溜息を隠すかのように煙草を吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返す。その姿は、分かりやすく言うなればひどく淋しげだった。

 その日の夜も例の彼はセレナーデに現れた。脱いだジャケットを担ぐかのように肩から下げ、いつも通りの静かな席に座り、いつも通りのビールとナッツを注文する。もう夕食を終えた後なのか、それともビールとナッツが夕食の代わりなのか、どちらなのか私には分からない。ただ彼はいつ見てもあまり顔色が良くはなく、不規則な生活をしているということだけは何となく分かっていた。

 あの人はプライベートなことを詮索されたくない客だ。それは分かっている。ここで無暗に踏み込んだり空気も読まずに絡みにいけば、彼は店に来なくなるかもしれない。それでもどうしてか放っておくことが出来なかった。この言い方は格好つけすぎかもしれない。放っておくことが出来なかったというより、私がじっとしていられなかったという方が正しい。

 片手に乗る程度の小さな皿に料理を乗せ、キッチンを出る。そのまま真っすぐに彼の居る席に向かった。私が目の前に立っても、彼は俯いた顔を上げてこちらを見ることをしなかった。

「あの、これ、良かったらどうぞ。サービスです」

 持っていた皿をテーブルに置く。その瞬間に初めて彼は顔を上げて私を見た。鋭く黒い瞳が刺すようにこちらを見る。そしてすぐに先ほど置いたばかりの皿に視線を落とした。薄く切ったゴーヤに醤油ベースの下味と片栗粉をつけ、油で揚げただけのゴーヤチップス。以前、お酒に強い友人から教えて貰ったレシピで、近々メニューに取り入れようと試作した物だ。

「ゴーヤチップスです。試作品なんですけど、よろしかったら召し上がってください。もちろんお代は結構なんで」

 思い浮かんだ言葉を早口で吐きだす。初めて彼に話し掛けたという緊張からか、背中に妙な汗が滲んでくる。彼はただ黙って皿に盛られたゴーヤチップスを見つめていた。表情は相変わらずに険しい。

「あ、もしかしてゴーヤ、お嫌いですか?」

 ゴーヤは好き嫌いがわかれる食材だ。そんな物を使った料理を、試作品でお金はとらないとは言え簡単に出してしまった自分に今更ながらしまったと思う。すぐに下げるべきかもしれないと皿に手を伸ばそうとした瞬間、「いや」という低い声が聞こえた。

「懐かしくてな……、ゴーヤ、か……」

 彼はまるで自分に言い聞かせるかのように小さく、優しく呟いた。傷かのように深く刻まれている眉間の皺がほんの少しだけ和らいでいるように見える。ゴーヤが『懐かしい』、ということはもしかしたら彼は沖縄出身なのかもしれない。しかしそれを声に出して尋ねたとしても、プライベートを詮索されたくないことで有名な彼は何も答えてはくれないだろう。

 黙り込んでいると、彼も同じように黙り込んだまま皿に手を伸ばす。ゴーヤチップスを一枚だけ取り口に運んで咀嚼すると、鼻でフ、と小さく笑い「美味いな」と呟いた。彼のそんな表情を見るのは初めてだったため、思わず息を飲んだ。

「……あんた、名前は?」

 二人の間に立ちふさがっていた沈黙を打ち倒すかのように、低い声が私に問う。強い力で引き込まれ、そのまま閉じ込められてしまいそうなほどの黒く力強い瞳が私を見つめている。指先ひとつ動かせなかったし、営業スマイルを浮かべることすら出来なかった。

、……です」

 お客さんに名を聞かれた時は苗字だけを答えるように。セレナーデでのバイトを始めた頃に店長から言い聞かされていたルールだった。忘れたわけではない。ルールを分かった上で私はフルネームを名乗った。彼には私の名をしっかり伝えたいと、何故か思ってしまった。

……か」

 彼の声が私の名を呼ぶ。和らいだように見える眉間の皺。少しだけ上がった口角。初めて見る彼の優しい表情。それなのに背負っている淋しさだけはいつまでもそこに色濃く存在して、消えることはなかった。

「いい名前だ。ありがとうな、……

 その日を最後に彼はセレナーデに来なくなった。

 彼が『美味いな』と言ってくれたゴーヤチップスを自分でも食べてみたが、下味が不十分だったためか苦味が残っていた。改良を重ねて完璧なレシピを完成させると、ゴーヤチップスは正式なメニューへ仲間入りを果たした。お客さんの評判は上々で「ゴーヤは苦手だったけど好きになった」という声を頂くこともあった。

 あの夜彼が食べたゴーヤチップスはきっと美味しくはなかっただろう。それなのに彼は優しく笑って美味しいと言ってくれた。いままで誰が話しかけても決して心を、口すらも開いてくれなかった彼が、ゴーヤを見て『懐かしい』と話してくれた。そのことが、淋しくも優しすぎた笑みが、彼の眉間の皺と同じように私の心に刻み込まれている。

 いつかまた彼はここへ来てくれるだろうか。また同じように優しく笑ってくれるだろうか。彼の名を私に教えてくれるだろうか。また私の名を呼んでくれるだろうか。

 彼の顔、瞳、眉間の皺、ジョッキを掴む手、煙を吐き出す口唇、私の名を呼んだ声、優しい笑顔。耳の奥にもまぶたの裏にも頭の中にも、私の細胞ひとつひとつにまで染み込み、こびりついて離れない彼を思い出しながら、私は待っている。このセレナーデで、いつまでも、彼を待っている。


(‎2024‎.6‎.‎17)‎

お誕生日おめでとうございます。