※獅子堂の片想い

薄汚れの灯

 待ち合わせはいつも汚い川を見下ろせる小さくて狭くてしょぼくて古臭い橋の上。は俺を見つけるなり小走りで近寄って来て、まるでデートの待ち合わせをしているカップルかのように「ごめん。待った?」と言う。

「どんだけ待たせんねん。遅すぎやろ」

「えー、化粧も直さんと急いで来たんやで?堪忍してや、獅子堂さん」

「アホぬかせ。お前の顔なんぞなにしたって大して変わらんやろ」

 そう言っての額を軽く小突くと「ひっどいこと言うわ」と言って笑った。この女は厚塗りの顔よりもすっぴんの方が何倍も可愛いということを俺は知っている。しかしそれを伝えたことなんか一度もない。

 は明日、嫁に行く。相手はどこぞの社長さんらしく相当な権力と財力を持っている男らしい。重い持病を持った父親の看病をしながら夜の街で働くにとってはこれ以上ない結婚相手なんだろう。こいつが抱えていた借金も父親の治療費も全部肩代わりしてくれるそうだ。何より二人は愛し合っていた。それはもう憎たらしい程に。

 別に俺はと一緒になりたかったわけじゃない。なりたかったわけじゃないが、一回で良いから抱いてみたいとか俺の女だと言い張ってみたいとかその程度の気持ちでもなかった。その程度ならむしろ楽だった。俺はに惚れていた。ただはいつも俺ではない男ばかりを見ていた。

「獅子堂さんともこれでお別れやね。なんや、寂しなるわぁ……」

 二人並んで橋の上から夜の街を眺める。ネオンの光が映り込むの目はまるでセンチメンタルとでも言うのだろうか。嫁に行く前の女がする表情には見えず、これがいわゆるマリッジブルーというやつかと考える。おセンチになりたいのは俺の方や。そう思いながら小さく舌打ちをしたが、には聞こえていないようだった。

「なぁ獅子堂さん。うちのこと、たまにで良いから思い出してや?獅子堂さんに忘れられたらうち、悲しいわ」

「はぁ?」

 アホみたいなことを言い出したの顔を思わず見る。との付き合いは長いし、こいつに使ってやった金もそれなりの額だ。なによりも俺はこの女に惚れていた。が好きな酒、好きなブランド、好きな食い物、好きな色、好きな花、その全てを知っている。こんな奴は何があろうと忘れられるわけがない。俺の気も知らずに好き勝手言うに腹が立って仕方がなかった。

「……やかましいわ」

 腹の中にある自分の想いは何一つ言うことが出来ず、ただそれだけを口にした。俺はから目をそらし、どこか遠くの空を見る。がどんな顔をしているか分からなかったが、聞こえてきた笑い声はどこか寂しそうに感じた。

「ほな、うち、そろそろ行くわ」

 俺の手に何かが触れた。の手だった。ギラギラした派手で長いネイルが皮膚をひっかくように包み、そっと握る。うっとおしいはずなのに、言葉を失ってしまうほどにあたたかかった。

「獅子堂さん、今まで本当にありがとう。元気でね。……さよなら」

 はそう言ってすぐにこちらに背を向けて来た方向へと帰って行った。恐らく今からまた店に戻り仕事をするんだろう。明日にはこの街を出て俺の知らない男と結婚して新しい生活が始まると言うのに、最後の最後までクソが付くほど真面目でアホな女だなと感じる。

『うちのこと、たまにで良いから思い出してや?』

 が言った言葉を思い出し、頭の中で繰り返した。

 たまにで良いから思い出せ?そんなんお断りや。たまにやない。毎日思い出したる。一分一秒でも一生でも、死ぬまで絶対に忘れへん。俺が死ぬ最期の瞬間に思い出すのはお前のその化粧が崩れた汚い笑顔や、クソ女。

 本音は何もかも腹の中に置き去りだった。消化して明日の朝に糞と一緒に出て行ってしまえばいい。もしくは今から浴びるほどの酒を飲んで全て吐いてしまおうかとも思う。そんなこと出来ないと分かっていた。俺はこの気持ちを死ぬまで一生持ち続ける。好きで好きで仕方なかったあいつの記憶と一緒に墓の下まで持って行ってやろう。

 汚れた川に目をやるとゴミがぷかぷかと浮いているのが見えた。一体どこまで流れて行くのかなんて誰にも分からないし知りたくもない。色とりどりのライトが輝く煌びやかな夜の街が、その日だけはありえないほどに寂しく、悲しく見えた。


‎(‎2023‎.‎12‎.‎11‎‎)‎