燃える海

 ふと、海が見たいと思い立った。ハワイという場所はどこに居ても海が見えるし切り離せない関係にある。私が見たいのは海そのものではなく、水平線から昇る朝日だった。観光客の少ない静かな海から始まる『明日』を感じたいと思った。ただそれだけだ。

 今夜、夜が明ける直前にでも海を見に行くつもりだということを山井さんに話した。彼はいつも通りの据わった目つきでこちらを見ながらゆっくりと瞬きをした後、片方の目だけを細くして表情を歪ませる。

「夜に女一人で出歩くのは危ねえから、やめとけ」

 何かしらの小言を言われることはなんとなく分かっていた。反論しようと口を開きかけたその時、山井さんは私の全てを封じるかのようにこちらを見下ろし強く睨みつける。眉間の皺がじわじわと深くなっていくのが分かった。

 何も言えなくなった私は、ただ「分かりました」とだけ返事をした。しかし自分で言うのも何だが私はそこまで聞き分けの良い女ではない。一応は山井一派の一員なのだから多少の護身術は身につけているため自分の身は自分で守れる。一派のみんなが寝静まった頃を見計らってこっそりシアタービルを出ようと計画した。

 何故そこまでして海から昇る朝日を見たいと思うのか、自分でも疑問だった。ある種の意地のようなものだったかもしれない。思い立ったが吉日。善は急げ。というやつだ。このことわざの使い方が合っているのかどうか学のない私には分からないけれど。

 そんな私の意地も計画も全ては無駄だった。シアタービルの正面入り口から出たすぐの所で山井さんが待ち構えていたからだ。建物に寄りかかるように背中をつけ、私の顔を見るなりにニヤリと厭らしく笑う。

「ま、そんな聞き分けの良いタマじゃねえよなぁ。ちゃんはよ……」

 いつもであれば山井さんは私を『』と呼び捨てにするのに、わざとらしい呼称に心臓が跳ねる。良く分かってるじゃないですかと思うも口には出さない。何も言わないまま海の方向へと歩き出すと、山井さんは私のすぐ隣について一緒に歩き出した。てっきり再び止められるのかと思っていたため面食らう。

「山井さんも来るんですか?」

「いいじゃねえか別に。どうせ止めたって行くんだろお前は」

 山井さんはこちらをちらりとも見ようとせず、ただそれだけを口にした。ここハワイはとても気温が高いため夜の海でも寒さなど感じないが、異常な寒がりの彼にとってはつらいかもしれない。そう思いつつも山井さんの申し出を断ることはしなかった。私は彼と一緒に街を歩けることが何よりも嬉しかった。

 ナイトストリートやトワイライトドライブが活発になるのは遅い時間帯のため、ネオンが灯っている周囲の店はまだ営業中で人の姿もあった。しかしそこを抜けてハーバーストリートまで出ると、観光客どころか人の姿はあまり見かけなくなる。すぐ横に居る山井さんの横顔を盗み見た。ただ前の一点だけを見つめて黙って歩く彼を見ながら、周囲に人が少なくて良かったと思う。

 山井さんは恐らく人があまり好きではない。その中でも特に若くて裕福そうで派手な日本人女性を見ると苦い顔をすることがある。嫌悪や憎しみなどではない。ただどこか苦しそうな顔だ。理由なんか知らないし私には想像も出来ない。ハワイへ観光にくる若い日本人女性がお金に困っていないということは想像に難くないため、観光客が少ないこの時間であれば山井さんの複雑な表情を見なくてすむのは嬉しかった。私の隣を歩いている時くらいはそんな彼を見たくはない。

 横断歩道を渡りハーバーストリートを抜けると、海沿いに建っている倉庫が嫌でも目につく。その間を通り、海が良く見える船着き場まで近づいた。落下防止なのであろう黄色いブロックまで行くと目の前には水平線だけが広がっている。

「あー……、クソ、寒ぃな」

 山井さんは体を縮めるように肩を震わせる。生温い風が何度も吹いて私の頬を撫でているというのに、彼にはそれがまるで感じられないらしい。山井さんが寒がりだということは良く分かっていたが、その寒気を止める方法も彼の体を温める方法も私には分からなかった。

 数歩だけ山井さんのほうへ近づき、二人の間にあった距離を縮める。厚手のコートを着た肩に寄りかかり身を寄せた。山井さんの体はまるで人形かのように体温が感じられない。ゆっくりと手を伸ばして彼の手に触れた。大きな手を包み込むようにしながら握ると、山井さんは私の手を握り返して来た。

「お前の手は冷てえんだよバカ野郎」

 ぶっきらぼうな暴言が聞こえてきたのとほとんど同時に、水平線から微かに覗く朝日が見えた。眩しさに目を細める。この太陽の温かさすらも山井さんの体にはきっと無意味だ。

 私には山井さんの寒気を止めることは出来ない。彼の太陽には決してなれない。私は裕福ではないが、一応は『若い日本人女性』に分類されるだろう。そもそも山井さんは私のことが嫌いかもしれない。私を見る度に苦い表情をしているのかもしれない。

「山井さんは私のことが嫌いですか?」

 墓穴の底に墓穴を掘るような質問をした。私の手を握ったままの山井さんの冷えた手がキュッと締まる。

「嫌いだっつったら……、お前はどうする?」

 低い声が聞こえる。まっすぐに水平線を見ていた目線を少しだけ伏せた。山井さんの表情を確認するのが怖く、彼の方向はとてもじゃないが見れなかった。

 もし山井さんに『嫌い』だと言われたら私はどうするのだろう。悲しくて泣くのだろうか。ああやっぱりと納得するのだろうか。どう返答すれば良いのかが分からず、数秒間の沈黙が流れた。その間も私たちの冷たい手は繋がったままだった。



 聞き慣れた山井さんの声が私の名を呼ぶ。何の反応も見せずに居ると、山井さんはもう片方の腕をこちらに伸ばして私の顎を掴んだ。強制的に目が合う。

「嫌いじゃねえよ。嫌いだったらこんな夜中にこんな所まで来たりしねえ」

 山井さんの表情はどこか苦しく、悲しく、淋しそうに見えた。私のことを『嫌いじゃない』と言った言葉に嘘はないように思える。それなのに山井さんは少しの微笑みもくれはしなかった。

「そうですか」

 それだけを小さく口にしてから背伸びをして顔を近付ける。そのまま自分の口唇を山井さんの口唇に触れ合わせてキスをした。山井さんは避けることも抵抗することもせずに私を受け入れた。血の流れなどまるで感じないほどに冷たすぎる口唇に淋しさが増して行くような気がする。

 どうして私を気にかけてくれるのか。どうして私を傍に置いてくれるのか。どうして私と手を繋ぐのか。どうして私とキスをするのか。数多くの疑問が頭の中を駆け巡る。山井さんに言わせればそれは『嫌いじゃない』から。『嫌いじゃない』ではなく、本当は『好き』だと言って欲しかった。そんなことを考えるなんて贅沢すぎると分かっていても、それでも私は山井さんに好きだと言われたかった。

 口唇を離し、まっすぐに目を見つめた。朝を告げる太陽に照らされた燃え盛る海が目の前に広がってゆく。それすらも、私たち二人を温めてはくれないようだった。


‎(2024‎.2.6)‎