となりでねむらせて

 店を閉めてそろそろアガリにしようかと考えていた22時。海藤の兄貴から電話がかかってきて飲みに誘われた。兄貴はキャバクラに行きたがっていたがそれを断ると、今度はテンダーに行くことを提案してきた。ここ最近は一緒に飲みに行く機会も減ってしまったため、せっかく誘ってもらったのだからと了承する。兄貴は電話の向こう側で嬉しそうな声を上げて、俺も自然と口角が上がった。

 「キャバがダメならせめて一杯くらい付き合え」という誘い文句だったが、兄貴のことだ、一杯で済むとは考えていない。俺たちはテンダーで一杯どころか三、四杯ほどの酒を飲み、解散した頃には日付が変わっていた。顔が熱いし頭もぼんやりとしている。久しぶりにこんなに飲んだような気がするし、とても楽しく美味い酒だった。

 帰路につきながら自分の嫁のことを考える。シャルルを出る前に「兄貴と飲んでくるから先に寝てろ」というような内容のメッセージを送っておいたので、は既に夢の中だろう。そもそもあいつは夜更かしが苦手なはずだ。こんな時間まで起きているはずがない。

 俺が立てる物音で眠っているを起こしてしまっては可哀想だと思い、なるべく静かに玄関扉を解錠する。ドアノブに手を掛けてゆっくりと引くと、開いた扉の隙間から光が漏れた。部屋の灯りが点いていることを不思議に思う。

「おかえり」

 玄関扉から入ってすぐの所に、が立っていた。柔らかな笑顔を浮かべながらも、眠いのかゆっくりと瞬きをしている。俺は扉を閉めると施錠をし、の方へと向き直った。

「馬鹿、なんで起きてんだ。寝てろって言ったろ」

 俺の言葉が気に入らなかったのかは眉間に皺を寄せてむくれる。もしかしたら『ただいま』だとか『悪かった』というような言葉を期待していたのかもしれない。

「うわ、冷た。せっかく出迎えてあげたのに……」

「無理すんな。さっさと寝ろ」

 が眠らずに俺の帰りを待っていてくれたことは素直に嬉しい。しかしなんとなくその感情を表に出すことがはばかられた。の頭のてっぺんあたりの髪が乱れていて、もしかしたらうたた寝でもしていたのかもしれないと考える。うとうとするの姿を想像すると少し笑えた。

 靴を脱いで部屋に上がり、ジャケットを脱ぐ。は何も言わないまま俺の手からジャケットを奪うように取ると、それをハンガーに掛けた。いつものやり取りであり、いつもの光景であるはずなのに、なんだか妙な気分になる。酒が多く入っているせいかもしれない。先ほど目に入った乱れた髪には少し癖がついていて、それに手を伸ばして撫でてやりたいという気持ちになった。

「ねぇ」

 が声を上げた。ハンガーに掛けた俺のジャケットに手を当て、埃を落とすためか軽く叩いている。俺の方を見るとまるで子供のように悪戯っぽく笑った。

「旦那さんの帰りをちゃんと待ってた御褒美に、何かくれないの?」

 言葉の裏には恐らく『何かお土産はないの?』という意味が込められているのだろう。そんな物はない。せめてコンビニのアイスやらプリンやら、何かしらを買ってくれば良かったかもしれないと思うも、もう遅い。

「お前は犬か……」

 申し訳ないと思うも謝罪の言葉は出ず、代わりに口から出たのは憎まれ口だった。は再び眉間に皺を寄せてむくれると、俺に顔を近付けた。

「犬じゃなくて、あなたの奥さんなんですけど」

 は良い女だ。もう何年も俺と一緒に居て、こうして結婚までしてくれた。同じ苗字になり家族となってくれた。同じ屋根の下で一緒に眠り一緒に起きて一緒に食事をする。いつも俺を気遣って、これでもかという程に無償の愛をくれる。俺はいつだって素直になれず、に意地悪な態度ばかり取ってしまう。

 『あなたの奥さん』という言葉が妙に耳についた。一歩前に出て体を寄せる。白く丸い頬に手を這わせると、指先に熱が伝わってきた。そのままの流れで顎を掴み、引き寄せて口唇を塞ぐ。

 最初は軽く触れ合わせるだけ。一度口唇を離して角度を変えてからもう一度口付ける。今度は深く、甘く噛む。微かに開いた隙間から舌をねじ込むと、はしがみつくように俺の腕を掴んだ。

 俺の手はの後頭部、首、背中、腰へと移動していく。寝間着の裾から手を滑り込ませると柔らかな肌に触れた。自分の中のいやらしい感情がふつふつと沸くような感覚がする。こんな気持ちになるのはきっと酒が入っているせいだ。いや、俺の嫁があまりにも可愛すぎるせいかもしれない。最早どちらでも良い。今すぐにこいつを抱きたい。手がの胸に触れた。その時だった。

「ストップ!」

 が大きな声を上げる。まるで俺の動きを静止させるかのように目の前に手を出し、険しい顔をしていた。

「徹、煙草とお酒のにおいやばすぎ。先にお風呂入って来て」

 その言葉に思わず「う」と小さくこぼす。何も言い返せなかった。つい先ほどまで海藤の兄貴と一緒に煙草を吸っていたし、その上テンダーで何杯もの酒を飲んだ。煙草臭いのも酒臭いのも当然だろう。溢れ出しそうな性欲に無理矢理ふたをされたような気分になり、体の奥がムズムズとした。

 仕方なくの体から手を離し、風呂場に向かうために背を向ける。

「俺が出て来るまで寝るんじゃねえぞ……」

 背を向けていたためがどんな表情をしていたのかは分からない。しかし「うん」と返事をした声は明るかったので、恐らく笑っていたのだろう。笑っていたと言ってもただの笑顔ではない。俺をからかう意味での笑いだ。なんだか悔しくなってチッと小さく舌打ちをする。

 寝るんじゃねえ、とは言ったものの、現在時刻は深夜の1時半。起きていろというのは酷かもしれない。恐らく俺が風呂に入っている間に眠ってしまうだろう。

 煙草のにおいも酒のにおいも全てを落としきった頃には、がベッドの上ですやすやと寝息を立てている未来があるに決まっている。理不尽だとか悔しいだとか、そういう気持ちはある。しかし、自分の嫁が穏やかに眠る姿を見られるならそれで良いのかもしれないなどと、どこかの誰かに惚気たくなってしまった。


‎(2024‎.3.13)‎