レザー
海藤さんが帰ったあとの事務所は痛いくらいに静かで、煙草に火をつけるライターの音すら大きく響く気がする。なんとなくここに居たくないと感じ、火のついた煙草を指に挟んだまま屋上に向かう階段をのぼった。そういえば以前、屋上で自殺する人を説得して止めたことがあったなぁとぼんやり思い出す。事務所が入っているこの第一ビルディングはそこまでの高さではないため、飛び降りたところで確実に死ねるわけではないだろうと今更ながら考えた。
階段をのぼりきり外へ出るドアを開けた時、神室町に漂う排気ガスを含んだ汚い空気と街の喧騒が一気に体へとぶつかる。しかしそれが気にならないくらい、俺の視線は何かに吸われた。それは人影で、こちらに背を向け屋上に設置されている柵に手を掛けながら、星一つ見えない澱んだ空を見上げていた。
「ちゃん?」
人影には見覚えがあり名を口にする。振り返った人物は俺が予想していた通りで、事務所階下のダーツバーに勤めるちゃんだった。
「あ、八神さん。こんばんは」
ちゃんは小さな声でそう言うと、こちらに向かって軽く会釈をする。
彼女は俺とも海藤さんとも面識があり、たまに男くさいうちの事務所の掃除を買って出てくれたり、バーで余った料理を分けてくれたりする。
「どうしたの。休憩中?」
問いかけると、ちゃんは頷いて見せた。
指に挟んでいた煙草を持っていた携帯灰皿の中に押し込みながらちゃんに近付き隣に立つと、柵に手をかけ同じように空を眺める。休憩中の彼女は気分転換のためにこうして屋上に来ているのだろうが、星どころか月すらも見えない曇り空に酔っ払いたちや客引きの下品な声が響き渡り、とても気分転換になるとは思えない。
「今日、お店すごく忙しいんですよ。だから休憩が終わったらさっさと店に戻らないと。こういう時に限ってヤな客ばっかだしストレス溜まりまくり。もう帰りたい」
ちゃんはそう言って愚痴をこぼすと少し大げさに思えるくらいの盛大な溜息をつく。
俺自身、酒を提供する店での接客業は経験があるため彼女の言い分も理解できる。尚且つ女性であるちゃんには俺には理解出来ないような悩みも多いのだろう。
ストレスというものは万病のもとだ。今度お互いの都合が良い時にバッティングセンターにでも誘ってみるかと考え、ちゃんに野球の知識があるかどうか聞こうと口を開いた時だった。
「あ、そうだ八神さん、私とハグしてくれません?」
口からこぼれそうになった“野球”という言葉が引っ込み、代わりに「は?」という間抜けな声が出る。ちゃんは混乱する俺とは正反対にどこか真剣な表情をして、こちらに顔を近付けた。
「ハグすると一日のストレスの三分の一が解消されるんですって。前にユッターで見たんです」
「え、いや、それは分かるけど、なんでそこで俺とハグするって話になんの」
「何言ってるんですか。だって今ここには私と八神さんしか居ないでしょ」
俺が反論してもひるむことなくこちらにぐいぐいと顔を近付けるちゃんに逆にひるんでしまい、俺は数歩後ずさる。しかしちゃんの顔は真剣そのもので、俺が何を言おうと引く気はないように見えた。
「あー……、まぁ、いいか……。ほら」
溜息交じりに言いながら目の前に両手を広げて見せた。するとちゃんはまるで“待ってました”と言わんばかりに俺の胸に飛び込み背中に手を回してハグをする。それは俺が想像していたものよりも遥かに力強く、ハグというよりはまるでタックルのようで、思わず「う」という声が漏れた。
ちゃんは俺の胸に頭をぐりぐりと押し付けていたが、恐らくそれは化粧が白シャツに着かないようにするための配慮なのだろう。奇天烈なことをしてもそういう気を遣える所が彼女らしいなとも思う。
自身の腕をゆっくりとちゃんの背中に回し、片手で後頭部をおさえる。そこを軽く撫でると甘い香水のにおいがした。
「八神さん」
ちゃんに急に名を呼ばれ心臓が跳ねる。もしかしてハグを“し返す”のはやり過ぎたか?と思い手を引っ込めようとしたその時、俺の背中に回っていた腕がきゅっと締まった。
「さっきの、ハグすると一日のストレスの三分の一が解消されるって話、誰でも良いわけじゃないんですよ。愛情を感じない人とハグしても意味ないんです。愛情を感じてる人とハグしないと、ダメなんです」
その言葉に何と返したら良いか分からなかった。ただ“それってつまり、俺に愛情を感じてるってこと?”などという質問をするのは野暮だなと思い、ちゃんを軽く引き寄せ、小さな頭を抱えるようにして抱き締めた。腕の中のちゃんは俺の首に鼻を寄せて深く呼吸をしている。
「あのー……、ちょっと、そんなにニオイ嗅がないでくれる?俺タバコくさいし、……多分」
俺がそう言ってもちゃんはこすり付けた鼻を離さず、小さな声で「八神さんのにおいはくさくないです」とこぼした。
そう言われても俺が気になるんだけど、と思いつつ、彼女の感覚も理解できる気がした。俺は女性のキツい香水のにおいはそこまで好きではないが、ちゃんから香る甘いにおいには不快感を覚えない。むしろシャンプーや体臭と混ざったにおいは心地良いとすら思ってしまう。
“体臭”。頭の中に浮かんだ単語のせいで自分が至極変態に思えてしまい軽く頭を振っていると、腕の中のちゃんが小さく「八神さん」と名を呼んだ。
「今日は連休初日だからしばらく忙しいんですよ、私。たぶん、明日もストレス溜まりまくりです」
抱きしめ続けているためちゃんの表情は確認出来ないが、なんとなく予想は出来た。恐らくは俺を試すかのような、誘うかのようないやらしい笑顔を浮かべているんだろう。この子はそういう子だ。
「それって、明日も俺にハグして欲しいってこと?」
問いかけにちゃんは何の返事もせず、再び俺の首に鼻をこすりつけた。返事は恐らく“イエス”。仕方ないなと思いながら頭を軽く撫でると、先ほど心地良いと感じた甘い香りが増す。ちゃんは俺を抱き締める腕の力を緩めないまま、小さく妖しく「フフ」と笑った。
(2021.10.11)