小さな白が罠を張る

 深夜の一時を十分ほど過ぎた頃。海藤さんに付き合い散々飲まされた俺は眠らない街をのんびり歩いていた。事務作業が残っているからと適当な理由をつけて抜けて来たが、そうでも言わなければきっと朝まで飲まされていたことだろう。強い酒のせいで足元が軽くふらつきバランスを崩しそうだったため、ゆっくりと、そしてしっかりと歩を進める。

 事務所が入っているビル前に到着し、いつもより重く感じる両扉を開けて中に入る。いくつかの階段を上ると見慣れたドアが視界に入ってきて、そこから明かりが漏れていることに気が付いた。うっかり電気を消し忘れたのだろうかと思いながらドアノブに手をかけると、鍵がかかっていないことに気付く。

 おいおい……なんて心の中で独り言ちると、俺はゆっくりと扉を開け、中に入った。いつも寝る時に使っているソファに人影が見える。

「どこほっつき歩いてたんですか」

 人影の正体は顔を見ずとも、その声で誰なのかがすぐに分かった。ちゃんだ。小さな体をソファに投げ出し寝転んでいる。俺の場合では狭く寝心地の悪いそれも、彼女が横になっている所を見るととても大きなソファに思える。

ちゃん……、こんな時間に何してんの」

 少なくとも数分前に確認した時刻は深夜一時をとっくに超えていた。神室町という街は彼女のような何の変哲もない普通の女性が一人で居るには相性が悪すぎるだろう。俺の問いにちゃんはソファから体を起こし、こちらを見上げる。

「何って、八神さんの帰りを待ってたに決まってるじゃないですか」

 ちゃんの言葉に妙な気持ちになる。少なくとも好いている女性が自分の帰りを待っていてくれるというのは悪い気分ではない。いやむしろ良い気分だ。しかしこんな時間までちゃんを一人で事務所に居させた自分に罪悪感のようなものを覚える。

「いや……、別に待ってなくて良いんだけど。早く帰ったら?」

 言い終えてから、もう少し別の言い方があったかもしれないと思ったがもう遅い。ちゃんは目を細め、こちらを睨むように見た。

「うわ、冷た。一日の終わりに好きな人の顔を見てから帰りたいって思っただけなのに」

 「好きな人」という単語だけが妙に頭の中に響く。いまさらこんなことにときめいてしまうほど俺は青くない。青くないはずなのに、今すぐに彼女に触れたい気分になってしまった。寝転んでいたソファから起き上がる白い脚に視線が吸われる。

「もういいですぅ、分かりましたぁ、帰りますぅ」

 子供のように拗ね、口唇を尖らせて言うちゃんがひどく可愛らしく感じる。事務所から出て行こうとするその腕を掴み、強く引いた。

「悪い、やっぱ嘘。……帰んないで」

 まるで息を吐くかのように、その言葉が自然と口からこぼれた。脚を止め、俺を見上げたちゃんは目を丸くし間抜けな表情をしていたが、すぐにそれを崩し、正に“してやったり”とでもいうように口角を上げる。

「まったく……、八神さんってばしょうがないんだから」

 そう言って嬉しそうに笑うちゃんを愛おしいと思う反面、同時に憎たらしいという気持ちも湧き上がる。悔しくなった俺は彼女の額を軽く小突いた。

 時刻は一時半を回った頃だろうか。夜はまだまだ長い。俺は“一日の終わりに好きな人の顔を見る”程度じゃ満足なんかしないから、と口にしようとしたが、その想いもちゃんには見透かされているような気がしたので、やめておいた。


‎(2022‎.‎2‎.‎20‎‎‎‎)‎