夜をこえて
楽しい時間はあっという間、だなんてありきたりな言葉は使いたくないが、近頃は本当にその通りだと思うことが多い。自分でもどうしようもないくらいに惚れこんでしまっている人との時間は特にだ。今日もちゃんと事務所で他愛ないおしゃべりをしているだけだというのに時間は一瞬で過ぎ去って、気が付けば電車の終わりが迫っていた。
「そろそろ帰りますね」
ちゃんはどこか寂しそうに笑いながら立ち上がる。吸っていた煙草を灰皿に押し付けて消し潰すと、同じように椅子から立ち上がった。せめて駅への道のりまでは一緒に居たい。事務所の出入り口に向かう小さな背中を追い掛け距離を縮める。するとちゃんはこちらに振り返り弱々しい笑顔を見せた。俺にはそれが『まだ帰りたくない』と訴えているように思えた。
ドアの目の前に立つちゃんの逃げ道を塞ぐように手をつく。壁に設置されている電灯のスイッチに手が触れ、まるで停電でも起こったかのように部屋の電気が消えた。
「まだ、帰んなくてもいいんじゃない?」
暗い部屋であっても、ビルの廊下や窓の外から入り込む神室町のネオンのせいでお互いの表情が見えなくなることはない。困惑したような表情がこちらを見つめていた。
「あー……、悪い。言い方変えるわ」
『まだ帰らなくてもいい』という、本音を隠すような言い方は卑怯だと思った。顔を近付け額と額を触れ合わせる。ちゃんから発せられる柔らかい熱に自分の体が溶けて混ざり合うような、そんな感覚がした。
「もう少しだけ、居てよ」
もうこの部屋から出しはしない。もうこの部屋に誰も入れはしない。二人きりで朝を迎えて、神室町の薄汚い空に浮かぶ朝日を一緒に眺めたい。不埒な考えに支配されている自分を確かに感じながら、返答も待たずにドアの鍵をしめた。ちゃんの大きな瞳には自分の姿だけが映っていた。
(2023.12.15)