ベイビー イフ

 大久保新平を被告人とする二度目の裁判で下された判決は、死刑だった。執行猶予だとか懲役何年だとか無期懲役だとか、そのどれとも違う。死をもって刑を全うするという、対象者の生命を断つ刑罰。それが死刑だということは学のない私でも知っている。

 私は頭が悪いし、法律のことなんてほとんど分からない。ただそんな私にもター坊が置かれた状況だけは理解出来た。『殺人鬼を無罪にし、野に放ったインチキ弁護士』。そんな批判を文字通り浴びるように受けたター坊は、あの日から法廷には立っていないようだった。

 松金貢の孫である私にとって、ター坊は歳の離れた兄のような存在だった。私を可愛がってくれたわけでもなければ特別扱いしてもらったわけでもない。それでも私にとってター坊は憧れで、自慢で、誇りで、大好きな存在だった。だからこそター坊が『インチキ弁護士』と呼ばれていることがつらかった。

 少し前、おじいちゃんに尋ねたことがある。「ター坊のタニマチをやったこと、後悔してる?」と。イエスとかノーとか、欲しい返答があったわけではない。ただなんとなく訊いてみただけだった。おじいちゃんは「馬鹿野郎」と言って鼻を鳴らしてから「そんなもん今までもこれからもねぇよ」と笑って煙草をふかしていた。私はただ「そっか」と返して、おじいちゃんの目尻に浮かんだ皺を眺めていた。何故か、とても嬉しかった。

 そこまで大きくもないが、築年数が浅めに見えるマンション。とある一室の前に私は立っていた。恐らくモニターがついているであろうインターホンを力いっぱいに押す。返事はない。目線を少しだけ上げると、表札にはしっかりした文字で『八神』と書かれている。もう一度インターホンを押してみる。返事はない。

「ごめんくださーい!ター坊?わたし!だけど!」

 共同廊下に声が響き渡る。返事はない。ター坊が住んでいるマンションは海藤さんが住んでいるようなボロアパートとは違って高級感がある。弁護士という職業はやはりそれなりに羽振りが良いのだなと思うも、源田法律事務所も辞めてしまったター坊にはお給料が振り込まれることは、きっとない。この部屋もいつしか家賃が払えなくなり出て行くことになるんだろう。

「ター坊ってば!居るんでしょ?ねぇ、開けてよ!」

 何度インターホンを押しても何の返答もなく、いら立ってドアを軽く叩いた。やはり返事はない。いら立ちが増して、右手を握りしめ拳を作った。先ほどよりも強く大きくドアを叩く。

「やーがーみーたーかーゆーきーくーん!開ーけーてー!」

 まるで子供が友達を遊びに誘う時かのように、語尾を伸ばしながら大きな声で名を呼ぶ。すると目の前のドアが音もなく急に開き、中から太い腕が飛び出して来た。そのまま体のどこかしらを掴まれ部屋の中へ引きずり込まれる。抵抗どころか声を上げる隙すらもなかった。

「うるっさいんだよお前……。近所迷惑だろ」

 背後でドアが閉まる音が聞こえる。目の前に立っていたター坊はひどく不機嫌そうな顔をしていた。白い長袖のシャツにデニムというラフな服装は、法廷に立っていた頃の面影を完全に覆い隠している。以前までオールバックにまとめていた髪はボサボサとしており、大きな瞳にかかるように伸び切っていた。

「ごめんごめん。だってター坊ってばなかなか出て来てくれないんだもん」

 ごめん、と口にしつつも本心では申し訳ないという気持ちは微塵もなかった。ター坊もそれが分かっているのか、ハァと大きく溜息をつきながら私を置いてさっさと部屋の奥へと戻って行ってしまう。私は靴を脱いで上がると、ター坊の背中を追い掛けた。

 中はとても暗かった。カーテンは閉め切られていて、かと言って部屋の照明が灯されているわけでもない。部屋干しの洗濯物があちこちにぶらさがっており、テーブルの上にはインスタント食品の容器が転がっていた。

「ター坊、ちゃんと食べてる?その歳でこんな食生活してちゃ、あっという間にガタが来るよ?お腹とか出ちゃったりして」

 片側の口角を上げてからかうように言ってみる。しかしター坊は返事どころか何の反応も見せず、さらに奥にあるベッドに腰を下ろして煙草を吸い始めた。サイドボードの上に置かれた灰皿を手に取り、抱えるようにしながら膝に乗せている。

 テーブルに置かれたインスタント食品の容器に背を向けて、ター坊にゆっくりと近付く。そこまで汚くはないのか、フローリングの床は部屋の僅かな光源を受けて弱く輝いている。ぺたぺたと音を立てながら歩を進め、ター坊のすぐ目の前で止まった。ベッドに座るター坊。その目の前に立つ私。何故ここに来たのか?何しに来たのか?ター坊も私もお互いに訊くことも聞かせることもしなかった。

 腰を折り、まるでお辞儀をするかのような体勢でター坊と目線を合わせる。額を覆い隠している髪をかき分け目元に触れた。例えば前髪をもう少しだけ短くしてから真ん中あたりで分けて、ふわふわとした毛先を外側に散らしたら、ター坊に似合う髪型になるかもしれない。法廷に立っていた頃のオールバックも好きだったけれど、ボサボサとした今の髪型も嫌いではない。いや、むしろこっちの方が私は好きだ。

「この髪型、好きだなぁ、私」

 思わず本音を独り言ちる。ター坊は伏せていた目を上げてこちらを見ると「は?」と声を上げた。まるで傷かのように深く刻み込まれた二重まぶたの線。そのすぐ下にある大きな瞳と目が合う。こんな風にター坊と見つめ合うなんてこと今までに何度もしてきた。それなのにまるで心臓を思い切り引き抜かれたような気持ちになる。抵抗するように大きく息を吸った。

「ほら、前はスーツばっかだったけどさ、革ジャンとか似合いそう。いま着てる白いシャツにライダース合わせたりとか、良くない?下のデニムも良い感じだし、これに白いスニーカーとか合わせたら完璧だと思うんだけど、どう?」

 自分の中の焦りのような気持ちを振り切るつもりで、私は思い付く言葉を次から次へと吐き出していく。とは言え全て本心だった。路面店のマネキンが着ていた黒いライダースジャケット。擦れ違った名も知らぬ誰かが履いていた綺麗な白いスニーカー。ファストファッションの白いシャツ、明るい色のデニム、ウォレットチェーン。それらを見る度に私はター坊を思い出していた。ター坊に似合いそう。ター坊に着て欲しい。ター坊の顔が見たい。ター坊に会いたい。そんな風に、いつも。

 ター坊は服装の話に何の反応も示さず、ただ私だけを見つめ続けていた。再び焦りのような気持ちが湧き上がって来て話題を変えようと試みる。

「あ、そういえばさ、いまおじいちゃんの知り合いが迷い猫預かってるんだ。たぶんター坊も知ってる人。『ピンクジャッカル』ってお店のさ……、覚えてる?」

 迷い猫の話題には興味があったのか、ター坊は考え込むかのようにしながら「あー……」と微かな声を漏らした。『ピンクジャッカル』という店で働くおじいちゃんの知り合いの顔を思い出そうと、記憶の引き出しを開いては閉じ、開いては閉じを繰り返しているのかもしれない。人差し指と中指で煙草を挟み込んだまま、親指でこめかみの辺りを掻く。

「その迷い猫ちゃんの飼い主さんを探してるんだけど、ター坊なんか知ってることない?首輪してるし、『ごはん』とかの言葉にも反応するし、人懐っこいし、絶対飼い猫だと思うんだよね。たぶん神室町のどっかで飼われてたんじゃないかなって……」

 言い終えたのと同時に、ター坊は私から目をそらした。指に挟んでいた煙草を一吸いした後に灰皿の上に乗せ、その灰皿ごと自分の手元からサイドボードの上へと移動させる。吸い主を失った煙草はただ虚しく真っすぐな煙を上へ上へと立ち昇らせるだけとなった。

「なんでそんなことしてんだよ。は便利屋でもなんでもないだろ」

 煙を吐き出しつつ、ター坊が言う。問いかけには何の他意もなかったと思う。ただ純粋に疑問だったのだろう。何故ヤクザの組長の孫がこんな、それこそター坊が言うように便利屋のようなことをするのか。ボランティアのような真似をするのか。自分でも不思議に思った。

「なんでって……」

 少し黙って考え込む。おじいちゃんは極道組織の組長で、私はその孫だ。神室町の人たちには世話になりっぱなしで、私はおじいちゃんと、松金組のみんなと、あの街の人たちに育てられたようなものだ。便利屋まがいのようなことをするのもボランティアのようなことをするのも、全てはその恩に報いたいという気持ちなのかもしれないと自分では思う。しかし『自分では思う』というだけで、弁護士であるター坊に言って聞かせられるような立派な大義名分などは持ち合わせてはいなかった。

「ただ、なんとなく、私がしたいから、かな……?」

 自分の中でしっくり来た単語を一つずつゆっくりこぼしていく。曖昧な気持ちで曖昧な言葉を口にしたという自覚はあったため、それを誤魔化すようにへらへらとだらしなく笑って見せた。目をそらしていたはずのター坊がいつの間にか私を見ている。それこそ穴が空きそうなほどに強く、真っすぐに。

 名を呼ぼうとした瞬間、煙草の匂いが残る大きな手がこちらに伸びて来るのが見えた。手のひらは頬を通り過ぎ耳の辺りで止まると、太く長い指先が後頭部へとまわる。そのまま頭そのものを引き寄せられた。バランスを崩しそうになりながら、片手をター坊の肩へ、片膝をター坊の太ももの間につく。ベッドのスプリングが小さな音を立てた。

「ター坊?」

 呼べなかった名を今度こそ口にする。それとほぼ同時に口唇がぶつかり合い、重なった。私の口唇とター坊の口唇だった。さらに引き寄せられた私の体は遂にバランスを崩し、ター坊の上に覆いかぶさるようにして二人共どもベッドに倒れ込む。ベッドのスプリングは先ほどよりも大きな音を立てた。

 ぶつかるように触れ合ってからすぐ、口唇が離れた。想像していたよりもずっと柔らかな感触が深く刻み込まれたかのように残っている。先に行動を起こしたのは間違いなくター坊ではあるが、現状は私がター坊を押し倒している状態だった。頭が追い付かない。目の前にある顔はただ無表情で私だけを見つめている。

「なんで……?」

 キスなんてするの?とまでは口に出来なかった。問いかけに対し、ター坊は何かを考え込むように口を閉じる。そして眉間に皺を寄せてから、まるで何かに呆れたかのようにフ、と鼻で笑って見せた。

「なんとなく、俺がしたかったから。……に」

 まるで先ほど私が言った『なんとなく、私がしたいから』という言葉をまるごと真似たかのような台詞だった。それはター坊の本音なのか、それとも私をからかいたいだけなのか、どちらかなのかが分からない。もしかしたら両方なのかもしれない。何となく悔しくなって、指の先でター坊の額の辺りをぺしりと叩いた。「やめろって」という小さく低い声が聞こえる。ター坊の口角が弱々しく上がっていくのを、今日初めて目にした。

「さっきの話だけど、俺も手伝うよ、飼い主探し。どのへんで保護したとか聞いてる?、その猫の写真とか持ってねえの?」

 ター坊は覆いかぶさっている私の体をどかしてベッドに転がしながら、ゆっくりと起き上がる。呆然として寝ころんだままの私の方へ振り返った顔は暗くもなければ明るくもなく、いつもの見慣れたター坊の顔だった。長い前髪の奥にあった瞳はフローリングに反射する弱々しい光が映り込んでいる。その表情が、その光が、ひどく懐かしいものに思えて、泣きたいような笑いたいような不思議な気持ちになった。

「うん……。持ってるよ、写真」

 返事をした声が涙で震えてしまったのが、自分でも良く分かった。

 今はまだ、ター坊は闇の中にいるのかもしれない。その闇から彼を救い出せるのは私ではない。それでも私は彼の傍に居たいと思った。闇の中から抜け出せないのならばせめて、この暗い部屋から出してあげたかった。暗く閉ざされてしまった瞳に、僅かでも良い、光をあててあげたかった。

 ター坊が探偵事務所を立ち上げたのは、それから少し経ってからのことだった。小さな看板と狭い事務所を見た私は、彼はまたここから始まるのだと確信した。弁護士の八神隆之ではなく、探偵の、八神隆之として。


‎(2024‎.4.27)‎