本音をたどる舌先
疲れた。休憩の時間を削っても仕事は減らないし、上司のパワハラは酷くなる一方だし、想定外の残業もした。疲れた。本当に疲れた。
こんな日は少し高めの厚いお肉でも買って塩コショウだけで食べてしまいたい気分だ。そんな風に思うも最寄りのスーパーへ行く気も起きず、帰路につく。確かインスタントのスープがまだ残っていたはずなので夕飯はそれで済ませてしまおう。時刻は夜の十時を超えている。肉は魅力的ではあるが、この時間にボリュームのある食事は避けるべきなんだろう。
自宅玄関のドアを解錠しそのまま中に入る。電気を付けようとスイッチに手を伸ばした瞬間、リビングに人影が見えた。覚えのある香りが鼻をかすめる。これは電子タバコのにおいだ。私は驚くこともなく、ただ心の中で“ああ、またか”と呟き灯りを点けた。
「よぉ。遅かったな」
桑名さんは電子タバコ片手にそう言って、弱く笑った。
彼はたまにこうして私の部屋を訪れる。合鍵でもあるのか不法侵入でもするのか、方法は分からないが何故かいつも部屋の中で私の帰りを待っている。初めこそ動揺したが、何度も回数を重ねるうちに慣れてしまって今ではこれっぽっちも驚かない。ましてや“なんで居るんですか?”などという無駄な質問をする気も起きなかった。
「顔色が悪いぞ。疲れてるんじゃないか?」
ポケットに電子タバコを仕舞い込んだ桑名さんは私に顔を近付け、覗き込むようにしながら問う。そりゃ疲れてますよ、なんて思うも口には出さない。今の私は桑名さんと他愛ない雑談をする気力も体力もない。
持っていたバッグをリビングのソファに放ると、一度バウンドしたそれは逆さまに落ち、中に入っていたポーチやスマートフォンがこぼれる。いくつかの化粧品が床に散らばりカチャカチャと音を立てるその様子を見ながら、私は大きなため息をついた。
とりあえず服を脱いで、メイクを落として、お風呂に入って、洗濯機を回して、軽い食事をして……。やることは山ほどあるし、明日も今日と同じように仕事に行かなければならない。桑名さんの相手をしている暇なんてない。
「着替えたいので、あっち向いててくれませんか」
未だに私の顔を見つめ続ける桑名さんになるべく冷たい声を意識して言う。そんな私の“努力”に構うことなく、桑名さんは先ほどと変わらない弱い笑顔をこちらに向けた。
「遠慮せず着替えればいい。俺は別に構わない」
落ち着いた声で言う桑名さんに、何言ってんだろうこの人、と率直に思う。桑名さんが構わずとも私が構うのは彼も良く分かっているだろう。そんなどうでもいいやり取りをするのが面倒臭く、私は桑名さんに背を向けた。ここで服を脱げないのならお風呂場かトイレにでも行ってしまおう。そんなことを考えながら一歩踏み出した私の腕を桑名さんが掴む。
一瞬だった。気が付くと桑名さんが私の肩の辺りに腕をまわし、強く抱き着いていた。呼吸音が耳に響き心臓が跳ねる。
「なぁ、」
離して欲しい、という要求をする隙もなく桑名さんが私の名を呼ぶ。
「お前はいつも俺を邪険に扱うが、“出ていけ”とは一度も言ったことないよな?なんでだ?」
桑名さんの顎が私の肩に乗せられる。この体勢では彼の表情を確認出来ず、声色から予想も出来ずに不安に思う。何故私を抱き締めるようなことをするのか。何故そんなことを聞くのか。桑名さんの行動が理解出来なかった。
私の部屋を訪れ、私に構い、私をからかうようなことをする桑名さんに“出ていけ”と言えないのは、私が彼に惚れているからだ。桑名さんは不思議で、読めなくて、いつの日かさよならも言わずに私の前から姿を消してしまうような、そんな気がする。だからこそ私は自分から桑名さんを追い返すようなことをしたくはない。しかしそれを口にするのは嫌だった。
「言いたくありません」
何とか声を絞り出すと、すぐ後ろで桑名さんが長い溜息をついたのが分かった。
「言わないと、こうだぞ」
桑名さんはそう言ってすぐ、後ろから私の首に軽く噛み付いた。そこまでの強さではないし、歯も立てていない。こんなのは子犬に噛みつかれた程度だと思うも、彼の口唇の感触に「あ」と小さな声が漏れた。
「ほら、言えって。もう一回噛み付いてやろうか?」
体中が熱を持っているような感覚がして息が上がる。こんなのは馬鹿みたいだ。首の後ろを軽く噛まれたくらいで興奮するなど、なんて下品で軽い女なんだろうと卑下したくなる。
「わ、わたし、は……」
桑名さんが好きだからです。そんな私の想いはきっと、桑名さんも分かっているんだろう。自分に惚れている仕様もない下品な女をこんな風にからかって、思いのままにするのが楽しいに違いない。それでも私が桑名さんを突き放せないのは、私が彼に惚れているから。彼が好きで好きで好きで、仕方がないから。そんな素直な想いを伝えたら、桑名さんはこのままずっと私の傍に居てくれるんだろうか。
熱く湿った舌先が再び私の首に触れる。吸血鬼が人の血液を吸うように、私の魂も、心も、この仕様もない感情も、そのまま飲み干されてしまえば良いのに、と思った。
(2022.1.23)