※原作チャプター12『モグラ』の終盤の設定
落日
帰宅すると家の前に桑名さんが居た。電子タバコをふかしながら「よぉ」なんて挨拶をされたが、それに対して返事はしなかった。桑名さんがこうして私の帰りを待ち伏せているのは珍しいことじゃない。桑名さんが急に目の前に現れたとしても、私は驚いたり困惑したりなんてしない。
しかしこの日の桑名さんはなんだかいつもと様子が違って見えた。優しい笑顔の底に何か言いにくいことを隠しているような、そんな顔。目の前まで来た桑名さんは、いつもどおりの穏やかな目で私を見下ろす。
「お前と会って話がしたかった。これから時間、あるか?」
桑名さんはそう言いながら、吸い終えたのであろう電子タバコをポケットに仕舞い込む。特に何も考えず「いいですよ」と返事をすると、私がやっと口を開いたことに安心したのか、桑名さんはフッと鼻で笑った。
人の居ない場所で二人っきりになりたいと言う桑名さんに連れて行かれたのは、異人町の西にある橋だった。日が沈みかけたオレンジ色の海が眩しい。
ただでさえ人の気配の少ない場所であるのに、桑名さんはそこからさらに橋近くに設置された小さな階段を下り、海に近付いていく。人が立つことを想定されて作られていないであろう地面は舗装されておらず、所々が黒かったり緑がかっていたりして、はっきり言って汚い。
不満に思う感情が顔に出ていたのか、桑名さんは私の顔を見ると困ったように笑った。
「今はちょっと人目に付くところは都合が悪くてな。我慢してくれ」
私には大体分かっていた。桑名さんはまた危ないことに首を突っ込んで身を隠さなければならない状況に居るのだろう。彼が一体何をしているのか、何を成し遂げようとしているのかは私には分からないが、決して褒められることではないということだけは分かる。
桑名さんを取り巻く状況に関する詳しい話は、初めから聞く気などない。気にならないと言えば嘘になってしまうのだろうが、そんなことよりも桑名さんが私の傍に居てくれる方が重要だった。それ以外はどうでもいい。
しかしその“桑名さんが私の傍に居る”という事実も、きっと今日限りなのだろう。先ほど私の家の前で待ち伏せていた桑名さんの顔を見た瞬間から分かった。彼はきっと、私の目の前から消える。私に別れの言葉を言いに来たのだと。
「」
桑名さんが私の名を呼ぶ。その声はいつも通りのはずなのに、何故か酷く寂しげに聞こえた。私は彼の顔を見るのが嫌で、地面の汚ればかりを見つめていた。
「お前の知ってる“桑名仁”は、今日限りだ」
顔を上げない私に構いもせず、桑名さんは話し出す。予想が的中した話の内容に、私は心の中で“やっぱり”と呟く。
「俺は今日限り、この顔も名前も変えて消える。だから最後に、お前に会っておきたくてな」
やっと顔を上げて桑名さんと目を合わせた。瞳の色は見たことがないくらいに悲しそうで、そんな目で私を見ないで欲しいと思うも、一度合わせた目はそらせない。
「。俺は、異人町でお前に会えてよかった。俺は、お前が、……」
桑名さんがそこまで言った所で、私は彼の口元に手を伸ばし、声を封じる。指先に触れた口唇が驚くほどに冷たくて、微かに震えているのが分かった。
私には分かる。桑名さんは“俺はお前が好きだ”と口にしようとしている。でも私は桑名さんの愛の言葉を聞くわけにはいかない。例え私が彼と同じ気持ちだったとしても。
「死ぬわけじゃないんだから、きっとまた会えますよね。いつかまた会った時に、この話の続きをしましょう」
きっとまた会える。それは自分に言い聞かせる言葉だ。そう思わなければ、どうにかなってしまいそうだった。
触れていた手を少しずつ退き、桑名さんの目を見つめる。動揺し、悲しみで溢れかえる心の内を表情に出さぬよう、無理矢理に笑顔を作った。きっと大丈夫。今の私は上手く笑えているはずだ。目の前にある桑名さんの眉間に微かに皺が寄る。
「最後に……、抱き締めても、いいか?」
問い掛けとほぼ同時に桑名さんが私の腕を掴んだ。返答する隙もなくそのまま強い力で引かれ、背中に腕が回ったのが分かる。骨が軋んでいるのではないかと錯覚するほどに強く抱きしめられ、堪えていた涙が出そうになった。
「桑名さん。……苦しい、です」
そう言っても、桑名さんは私を離そうとも、腕の力をゆるめようともしなかった。
この苦しさは、強く抱きしめられた時の呼吸が浅くなる苦しさなんかじゃない。これはきっと、愛する人との別れが近付いていることへの苦しさだ。胸が押し潰されそうな、肺を掴まれているような、そんな苦しさ。
桑名さん越しに見える海に日が沈んでいくのが見える。桑名さんはきっとあれと同じ。太陽が沈み消えゆく様に足を止め立ち尽くす人と同様に、無力な私は彼を見送ることしか出来ないんだ。彼の口から好きだなんて聞けないし、私の口から好きだなんて言えもしない。桑名さんが顔を変え名前を変え、姿を消しても、私を忘れないでいてくれるならばそれでいい。それ以上はなにもいらない。
そんなことを思いながら自身の鼻を彼の胸に押し付けると、覚えのある電子タバコ独特の香りがする。私はこの香りを、きっと死ぬまで忘れないのだろう。
(2022.1.22)