仏の顔は何度でも
九十九君が不在の事務所で、ひとり留守番をしていた時のことだった。
「ごめんください」
エレベーターの起動音に気付いたのとほぼ同時に、少し高めの柔らかな声が事務所内に響く。背後へ振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。年齢は僕より年下か、もしくは同じくらいだろうか。例えるならば菩薩のように優しい顔立ちで、服装も落ち着いているように見えた。
「あ、依頼のご相談ですか?予約はされてます?」
ひとまずは営業モードに切り替え、応接をするソファへ座るように促す。すると女性は手をひらひらと振りながら「いえ、違うんです」と言い、困ったような笑顔を見せた。
「私はと言います。九十九誠一さんはいらっしゃいますか?」
女性、さんは控えめな小さな声で言い、何故か申し訳なさそうに体を縮めていた。
探偵の仕事とは関係なく、プライベートで九十九君にお客さんなんて珍しいなと思いながら、僕は壁に設置された掲示板に貼られている今日のスケジュールを確認した。今日の九十九君のスケジュールは午後からとある依頼人と外で打ち合わせをし、戻りの時間は書いてない。
「あー、九十九君、今日は帰り遅いと思います。戻りの時間が書いてないので……」
申し訳なさを感じ控えめな声で言うと、さんは予想通りに少し困ったような顔をした。そしてすぐに僕の顔をジッと見つめ、ゆっくりと瞬きをする。
「スギウラさん……、ですよね?」
唐突に名を呼ばれ、僅かに心臓が跳ねた。そして同時に自分が名乗っていなかったことに気が付く。お客さん、ましてや九十九君の知り合いならばしっかりと「杉浦文也です」と名乗るべきである。僕は仕舞いっぱなしの名刺を取り出そうとポケットに手を突っ込んだ。
「杉浦さんのことはツクモくんから良く聞いてます。とても頼れる大切な相棒だと」
焦っている僕を気にも留めず、さんは続けて言う。先ほどは「九十九誠一さん」と呼んでいたが「ツクモくん」という呼び方に変わったことで、二人がそれなりに親しいことがすぐに分かった。普段から九十九君がどんな風に僕の話をしているのかは分からないが、恐らく彼のことだ。僕を褒めてばかりいるんだろう。少しばかり照れ臭くなり、名刺を取り出そうとしていた手が止まる。
するとさんが数歩こちらに近付き、手に持っていた紙袋のようなものを僕に差し出した。何も聞かず反射的にそれを受け取り、さんの顔を見る。
「それ、ツクモくんに渡して頂けますか?が来たと言ってくだされば分かると思いますので」
さんはそう言って優しく笑った。紙袋の中身をほんの少しだけ盗み見ると、何かの箱が入っていた。見る限り九十九君が好みそうなフィギュアの箱のようなものに見える。
その間、さんはこちらに深々とお辞儀をした後に背を向けて帰ろうとしていた。僕は慌ててその背中に向かって声を張る。
「九十九君にはちゃんと伝えておきます」
僕の声に、さんはゆっくりと振り返る。そして、それこそ本当に菩薩かの如く優しく微笑んだ。
「ツクモくんを、どうかよろしくお願いします、杉浦さん」
何もかもを包み込んでくれるような、深く穏やかな微笑みは僕を呆然とさせた。そして同時に確信する。この女性はきっと九十九君のことが好きなのだと。根拠もないし、勘と言われればそれまでだ。しかし僕には分かる。何もかもを見通しているかのような、何もかもを許しているような、あんな愛情に溢れた微笑み。羨ましいくらいだった。
九十九君が事務所に戻ったのは日付が変わる少し手前の時間帯だった。疲れの色さえ一切見せない彼に紙袋を差し出す。初めは目を丸くしていた九十九君も「さんって人がうちに来たんだよ」と言うと、嬉しそうに笑いながら紙袋を受け取った。
「こ、これは!都内の一部店舗で数量限定販売されたラブスタのフィギュア!?これをさんが!?大変です!明日、お礼の連絡を差し上げなくては!」
紙袋の中身を確認した九十九君は興奮しながら言う。フィギュアの箱を慎重にテーブルの上へ移動させると、右から左へと眺めてニコニコと楽しそうにしていた。
「九十九君さ……、あの人と付き合ってるの?」
僕は気になっていたことをストレートに聞いてみた。
あのさんという女性は明らかに九十九君を慕っているように見えた。そもそも九十九君は僕の想像以上にモテるし、神室町に居た頃には恋人が居たという話も聞いたことがある。さんと九十九君が付き合っていると聞いても何ら不思議はない。しかし予想に反して、九十九君は首を横に振った。
「いえいえ!さんはボクが引きこもっている時から長年ずっと仲良くして貰っておりまして。僕にとっては八神氏と同じような恩人であり戦友……そんな存在です」
九十九君の言葉に思わず唖然としてしまった。九十九君はさんの気持ちに気付いていないようだ。九十九君はどんな時でも冷静で、その上優しくて穏やか。頭も切れるし洞察力もある。そんな彼が女性の気持ちに気付かないなんてことがあるのだろうか。もしかしたら恋愛に関しては鈍いタイプなのかもしれない。
“あの人、九十九君のこと好きだと思うんだけど”
そんな言葉を口にしようとして、やめた。きっと長年、九十九君に片想いしているのであろうさんにはさんなりの考えがあるんだろう。
先程も思ったことではあるが、あんな風に相手のことだけを思いやり、気遣える存在が居るのは正直羨ましいとすら思ってしまう。僕にもいつかそんな存在が現れてくれることを願いながら、このことは胸に秘めておくことにした。
(2022.1.2)