微睡む君へ空言を

「あれ……?」

 さんの間の抜けた独り言が事務所内に響く。外での仕事をやっと終えたのだろう、その表情は疲れ切っている。いつもの椅子に座りスマホをいじっていた僕は彼女に向かって「おかえり」と声を掛けたが、返事はない。

「九十九くんは?今日、外だっけ?」

 僕に“ただいま”と言うよりも先に九十九くんの名が出て来たことに少し引っ掛かる。そんなことはお構いなしにとさんは僕の向かいにあるソファへ力なく腰を下ろした。

「九十九君は外で依頼人と会ってるよ。夜には戻ってくると思うけど」

「あ、そっかぁ……。なんだ、話したいことあったのに」

 さんは目を閉じ、大きなため息をつきながら天井を見上げた。その心底残念そうな様子に僕は、九十九くんじゃなくて僕じゃダメなのかな、なんてことを考えてしまう。先ほどの「おかえり」という声掛けに返事がなかったことに加え、いま目の前にいる僕ではなくここに居ない九十九君の名を出され、妙なもどかしさを感じた。

 僕はさんにコーヒーをいれてあげようと、椅子から立ち上がりシンクの方へ向かう。コーヒーメーカーのスイッチを入れてカップを準備している間も、さんは何度も溜息をついていた。相当疲れているようだった。

さんは今日、身辺調査に行ってたんだよね?この間依頼のあった……」

「うん。今回の対象者すごくてさ。交友関係めちゃくちゃ広いし、フットワーク軽いしでもう大変だったよ。尾行だけでクタクタ……。とりあえず今日の調査内容まとめて、依頼人への報告は来週かなぁ」

 いれたての香りの良いコーヒーが入ったカップをテーブルに置くと、さんは「ありがとう」と言って笑う。その笑顔に吸い寄せられるかのように、僕は無意識に彼女の隣のスペースに腰を下ろした。二人分の重さでソファが沈み込み、体が揺れる。さんはコーヒーを何口か飲むと、体が温まったせいなのか目元をぼんやりとさせた。瞬きのスピードが遅くなり、尚且つ回数が増える。どう見ても睡魔に耐えているように見えた。

「九十九くんが戻るまで、少し寝てても良いかなぁ……、今日はほんと……、疲れちゃった」

 さんは独り言のように呟いた後、体をふわふわとさせながら舟を漕ぎ始めた。僕はさんの手からゆっくりとカップを奪うと、それをテーブルの上に音を立てないようにしながら置く。

「……いいよ、ここで寝ちゃっても」

 囁くように声を掛けたが、さんはすでに夢の中へと行ってしまったようだった。揺れる頭が自然とこちらに傾いてきて僕の肩に寄りかかる。香水なのかシャンプーなのか分からない甘く優しい香りが漂い、頭がぼんやりとする。ソファの上に投げ出されるようになっていたさんの手の上に自分の手を重ねて握った。柔らかな肌と体温がはっきりと伝わって来て、うるさいくらいに胸が高鳴る。眠っている女性にこんなことをするなんて最低だ。そう思うも、止められなかった。

さん……?」

 名を呼んでみるものの、当然ながら返事はない。さんからはすぅすぅというリズミカルな寝息が聞こえてくるだけだった。

「僕、嘘ついちゃった。……ごめんね」

 僕は九十九君について「夜には戻ってくると思うけど」と言ったが、あれは嘘だ。九十九君は明日の朝まで帰ってこない。この事務所には今日、僕とさんしか居ない。そんな状況でも僕はさんの手を握るのが精いっぱいで、それ以上なんか出来やしないということは分かっていた。ただ隣に座って、眠る彼女の鼻先を眺めて、髪の香りを感じて、手に触れることだけで十分だった。

「好きだよ、さん」

 口にしたこの想いは、いま夢の中に居るさんには届かない。僕の独り言は誰にも受け取られることなく、部屋のどこかへ吸い込まれて消えた。


‎(‎‎2023‎.‎1‎.‎18‎‎‎‎)‎