ミントとコーヒー
聞き慣れたアラームが響く。それは「一番目が覚める音だから」とさんが設定していた独特の音だった。時刻は恐らく七時十分。七時ぴったりでもキリの良い七時半でもなく七時十分なのは彼女なりのこだわりがあるらしかった。僕には良く分からないけれど。
隣でさんの体がもぞもぞとうごめく。ベッドから這い出ようとしているその体に手を伸ばし、腰に腕を回してしがみついた。さしずめコアラと言ったところか。
「ちょっと……、文也くん。放してよ」
さんは体をねじったりして僕の腕を振りほどこうとした。被っていた布団がめくり上がり、自分の体が部屋にただよう冷たい空気に曝されると強い寒さを感じる。
「んー……、もうちょっと寝てようよ。寒いよ……」
「何言ってんの。文也くん今日早いんでしょ。ほら、起きないと遅刻するよ」
ふと思い出す。そういえば今日は朝早くから依頼人が来ることになっている。それなりに相談件数が増えて来た横浜九十九課では、最近になって電話での予約を募集し始め、今日の依頼人はひと月前から予約を入れてくれていたのだった。流石に今日の遅刻はまずい、と考える。いや、遅刻はいつだっていけないものではあるのだが。
「文也くんはごはん?パン?今日はどっちにする?」
さんはこうしていつも朝の主食をどちらにするかを聞いてくれる。今日の気分的にはトーストが食べたいと思ったため「パンがいい」と伝えると「了解」という言葉が返ってきて、布団を引きはがされた。さんはそのまま寝室を出て行き、身ぐるみをはがされた僕(と言っても寝間着は着ている)はベッドの上で体を縮めた。
「寒いってば、もう……」
文句を呟きながら渋々ベッドから起き上がり、スリッパをつっかけて寝室を出る。リビングから見えるキッチンでエプロンを着けたさんがせわしなく動いていた。ベーコンと卵の焼ける良い香りが鼻をかすめる。洗面所へ行って顔を洗い、鏡で自分の顔を見た。今日も寝癖がひどい。置いてあったさんのブラシを拝借して右へ左へと髪を梳かすと、その時点でほとんどの寝癖は消えた。
その後は寝室に戻り、クローゼットを開けて着替えをした。いつもの白いパーカーを着て、その上からデニムジャケットを羽織る。下はジョガーパンツとくるぶし丈のソックスを履いた。着替えを終えて寝室を出ると、ダイニングのテーブルに朝食が準備されていた。香りから予想していた通りベーコンとスクランブルエッグがお皿に乗っていて、横にはキツネ色のトーストが添えられている。腰を下ろし、顔の前で手を合わせ「いただきます」と言ってから、まずはマグカップに入っているコーヒーに口をつけた。
すると目の前の席にさんが座り、僕と同じように「いただきます」と言ってコーヒーに口をつけてから食事を始める。フォークでスクランブルエッグを丁寧にすくい取り口に運ぶ姿は妙に優雅だ。僕を送り出すために早く起きて、しっかりとした朝食を作って、こうして同時に食卓につく。そんな彼女の姿を見ていたら笑みがこぼれた。僕の視線に気付いたさんがこちらを見たため、自然と目が合う。
「……なに?じっと見て」
「いや?さんは良い奥さんになりそうだなーって思って」
この言葉は本音だったが、半笑いで言ってしまったためにさんにはからかいに聞こえたかもしれない。目を細めて僕の方を見てから、呆れたように笑った。
「朝ごはん用意したから?今時は料理に奥さんも旦那さんもないって。……というわけで明日の朝ごはんは文也くんが作ってね。よろしく」
「えー、早起き出来るかなぁ……」
まだ結婚してはいない僕たちがお互いを「奥さん」「旦那さん」という位置づけにしていることに違和感などは覚えない。朝の貴重な時間が過ぎるのはあっという間で、家を出なければいけない時間が近付いてくるのが分かる。完食し、お皿をシンクへ運ぼうとした時にさんが声を上げた。
「文也くん、頭の後ろんとこ、寝癖すんごいよ」
「え、ほんと?」
思わず後頭部に手をやると、そこだけ不自然に髪が盛り上がっているような感触がした。先ほどは正面からしか自分の姿を見なかったため気付かなかった。さんは小さく笑いながら僕の手を引き、洗面所へつれていく。そしてブラシで僕の髪を梳かしてくれた。
僕は丁度良いと思い、洗面所へ来たついでに歯磨きをした。さんが髪を梳かす音と、僕が歯ブラシを動かす音が響く。
「文也くんって普段は完璧なのに、こういう所は抜けてるんだよねぇ……」
「ひょっとはん。ほれって悪口?」
歯磨きをしながらだったため、言葉が上手く発音出来なかった。それが可笑しかったのか後ろでさんが笑い、正面の鏡越しに目が合う。
「まぁ、文也くんのそういう部分を見れるのも、彼女の特権だよね」
さんは僕の後頭部を軽く叩くと「はい、これでよし」と言った。そこへ軽く触れてみると盛り上がりは消えており、寝癖が直っていることが分かる。僕が歯磨きを終えて口をゆすいでいる間、さんは洗面所からリビングへ移動したようだった。
「ねー!文也くん、時間大丈夫?もう八時になるけどー?」
大きめの声が聞こえ、壁にかけてある時計を見た。時刻は七時五十五分。
「やば!もう行かなきゃ」
駆け足でリビングへ行き、そのまま玄関へ向かう。急いでいつものスニーカーを履いてから振り返ると、さんが立ってこちらを見ていた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
お互いにそう言ってから、ほんの一瞬だけ、軽く口唇を合わせる。先ほどの歯磨きによる爽やかなにおいを打ち消すように、コーヒーの濃い香りがした。今日も僕の一日が始まる。
(2022.6.3)