君が大好きでどうしようもないです。
「さん」
久しぶりの休日。自宅でのんびり過ごしていた時にふと、その名を呼んだ。少し離れた場所にあるソファに座ったさんはワンテンポ遅れで「ん」とだけ返事をしたが、顔をこちらに向けることはない。彼女の目線は手元にあるスマホに落とされたままだ。
「今日明日休みだし、せっかくだからどこか遠出する?さんはどっか行きたいとこないの?」
その問いにもさんは先程と同じようにワンテンポ遅れで「ん」と返事をする。返事とは名ばかりで、恐らく僕の話はさんに通じていないんだろう。さんはずっとスマホばかり見ているが、ゲームをしているのかユッターでも見ているのかは分からないしどうでもいい。問題は彼女が僕の話を聞かず、僕の方を見ることもしないということだ。
「さん、さっきっから何してるの」
苛立ちを感じ、自然と声が低くなったことを自覚した。しかしさんはそれに気付かないようで、想像通りワンテンポ遅れで「ん」と返事をする。僕はゆっくりとさんが座るソファに近付いた。足音をたてないようにとか気付かれないようにとか、そういったことを意識したつもりは全くない。しかしさんは僕が隣に腰を下ろしても気付くことはなく、夢中でスマホだけを見ていた。
「」
耳元に口唇を近付け彼女の名を呼び捨てる。さんは一瞬肩を微かに揺らしたかと思うと、スマホを操作する指を止めた。そしてゆっくり、恐る恐るとでもいうようにこちらに顔を向け僕と目を合わせる。さんは目を丸くしてゆっくりと瞬きをしていたが、その頬や耳や首までもが赤くなっていくのが分かった。ただ耳元で名を呼び捨てただけだというのに。
「……そんな顔、久しぶりに見たな」
思ったことが率直に口から言葉になって出ていた。僕はさんが持っていたスマホを取り上げ後ろ手に隠す。さんは赤い顔のまま「あ」とだけ声にしたが、抵抗はしなかった。
「がそんなに“うぶ”だったなんて、僕、知らなかったよ。これからはずっとこうやって呼ぼうか?ねぇ」
わざとらしく何度も名を呼びながら顔を近付ける。さんの頬に触れ軽く撫でると、真っ赤な顔は思った通りに熱い。戸惑っているのか目は泳ぎ、ほんの少し潤んでいるようにも見えた。彼女のこんな表情が見れるならこれからは本当に“”と呼び捨て続けようか、と思ったが、きっとさんはそれを許してくれないんだろう。
「ちょっと、やめてよ恥ずかしい。いつもみたいに呼んで」
案の定さんは反論をし、赤い顔のまま僕を睨みつける。そんな顔をしたって煽りにしかならないんだけどな、などと思いながら、僕はさんの首元に顔を埋めた。背中に手を回し抱き締めるように体を引き寄せ、囁く。
「僕のことも“文也”って呼んで。そしたらやめてあげる」
さんの体はまるで石で出来た人形かのように固まっていた。それなりに付き合いの長い僕たちではあるが、さんのこんな様子を見たのはいつ以来だろう。自分の胸の辺りにさんの心臓の音が確かに伝わってきた。
「……ふ、」
愛して止まない柔らかな声が僕の名を紡ごうとしている。本当はそれを聞いて幸せな気分になりたいけれど、それよりもしたいことが僕にはあった。背中に回していた手を今度は後頭部に移動させさんの口唇を塞ぐ。僕の名は二人の口唇と口唇の間で潰れて消えた。
(2022.2.15)