鍵ながら
時刻は午後の10時過ぎ。定時の時点で山ほど残っていた仕事を半ば無理矢理に片付けてやっと自宅マンションへ帰ると、玄関ドアの前に座り込んでいる人影が見えた。顔を伏せているが私にはそれが誰なのかがすぐに分かる。デニムジャケットに白のパーカー、黒のスニーカーに明るい色の髪。あれは杉浦くんだ。人影へ近付く前に、バッグからスマホを取り出して画面を確認する。それらしき連絡は一切入っておらず、何故杉浦くんがここに居るのかが分からなかった。一体いつからここで私の帰りを待っていたのだろう。
「杉浦くん?」
ゆっくりと近付きながら名を呼ぶ。すると杉浦くんはすぐに顔を上げてこちらを見た。
「あ、やーっと帰ってきた……。おかえりさん」
私に向かって優しい言葉を口にした杉浦くんは、一見は普段通りに感じた。しかしいつもと明らかに違う点にすぐに気付き、私は返事をしようと開いた口を閉じる。目を少しだけ細めている杉浦くんの表情はなんだか睡魔に耐えているように見え、声は柔らかくふわふわと掴みどころのないような印象を受けた。すぐにピンと来る。どうやら彼は酔っている。
「杉浦くん、もしかしてお酒、飲んでる?」
「ん……、まぁ、飲んだよ。今日は九十九くんと一緒に晩ご飯食べたから」
杉浦くんは立ち上がり私を見下ろす。彼がお酒に酔っている姿を見ることはあまりないため、珍しいこともあるものだなとぼんやり思う。
「いつから待ってたの?来るなら連絡くれれば良かったのに……。待たせちゃってごめん」
私はバッグから鍵を取り出しドアに差し込みながら言う。そうは言ったものの、今日の仕事の量を思い返してみると早く帰宅することは難しかったかもしれない。しかし知っていれば『今日は遅くなるから』ということを知らせるくらいは出来たはずだ。
鍵を回し、カチ、という解錠された音が耳に届いた。その瞬間、私の背中に何かが覆いかぶさり、腰が軽く折れる程度の重みを感じる。杉浦くんが私を背中から抱き締めるように腕を回していた。驚き、思わず手にしていた鍵を落としそうになる。
「ねぇ、僕、さんちの合鍵欲しいんだけど。こないだ僕んちのあげたし、良いでしょ?」
「えっ」
「……だめ?」
低く囁かれた声は、明らかにいつもと違っていた。回された太く力強い腕と、耳元にかかる吐息が妙にむずがゆく、体の奥が疼くような感覚になる。
少し前、私は杉浦くんが住んでいる部屋の合鍵を貰ったが、私の部屋の合鍵はまだ渡せていない。理由はいつ何時でも自宅を見られることに対して照れくささがあったのと、整理整頓が苦手で部屋が散らかりやすいせいだった。たしかに杉浦くんに合鍵を渡していれば今回のように長い時間外で待たせるようなことはないかもしれない。だが私には彼に合鍵を託す勇気がまだなかった。
軽く振り向いて杉浦くんを見た。その顔はお酒のせいなのか妙に色っぽく、いつにも増して心臓がうるさく鳴る自分がはしたない人間に思えて自己嫌悪したくなる。
「と、とりあえずさ、中入ろ?寒いし」
そう言ってドアノブに手を掛けた瞬間、後ろから伸びて来た杉浦くんの手が素早くドアを開け、私の体を部屋の中に押し込む。バランスを崩して倒れ込みそうになる私の体を杉浦くんが支えるようにしながら掴んで引き、私を閉めたドアに押し付けた。大きな音がしてから間髪入れずに今度は顎を掴まれ、乱暴に口唇を塞がれる。一気に事が進んで、理解が追い付かず抵抗も何も出来なかった。
しかし、混乱しつつも私は頭の片隅で思った。杉浦くんのキスからはお酒の味や香りを一切感じられない。いつも通りの、彼のキスの味だった。口唇が離れ、突然の出来事に呼吸の暇もなかった私はそこでやっと大きく息を吸う。杉浦くんは先程と変わらない目で私を見つめていた。
「たまにはさ……、玄関で“こういうこと”するのもいいよね」
杉浦くんはそう言って、もう一度キスをしようと顔を斜めにさせながら近付いてくる。私はその肩を掴み強く押して、行動を止めた。
「ちょっと杉浦くん、待って。今日飲みすぎじゃない?お水持って来るから……」
「お水なんかいらないよ。僕、別にそこまで酔ってないし。お酒は飲んだけど」
私はハッと息を飲んだ。確かに思い返してみれば、杉浦くんはお酒を『ちょっとだけ飲んだ』と言っただけで、酔っていると勝手に判断したのは私だ。杉浦くんのキスからはお酒の味も香りもしなかったし、よくよく見てみれば彼は先程と表情を変えており、いつも通りの悪戯っぽい笑顔でこちらを見下ろしている。してやられた、と思った。
「僕さ、酔ってれば“こういうこと”しても許されるかなぁとか思ってたんだけど違うみたいだね。もうどっちでもいいや。酔っててもシラフでも」
杉浦くんはそう言って、抱き着くようにしながら私の髪に顔を埋める。背中に回された腕が段々と下がり、腰を撫でていく。その手つきがあまりにもいやらしく、思わず息が浅くなった。
「……さん、いいにおい」
杉浦くんは私の髪の匂いを嗅ぎながら呟く。デスクワークとは言え、今日一日遅くまで仕事をこなしてきた身だ。そこまで良い香りを纏っている自信などは一切ない。そんな『私の体のにおい』を嗅いで、まるで誘うかのように低く甘い声を出している杉浦くんは今までに見たことがないものだった。
「や、やめてよ。なんか、変態みたいだよ」
雰囲気に押し潰されそうになり、茶化すように言う。すると杉浦くんは顔を上げ私を見下ろした後、自分の口唇を舐めた。
「僕を変態にしたのはさんだから。……責任、取ってよ」
杉浦くんはそう言って、私の背後にあるドアの内鍵を大きな音を立てながら閉める。まるで見せつけるかのように思えたその行為は、『もう逃げ場なんかないから観念して』とでも言いたげだった。二度目のキスは一度目よりもずっと深く、卑猥で、やはりお酒の味も香りもしなかった。
(2023.1.9)