よこしまに噛みついた
夕方の五時過ぎ。外で遊んでいた子供たちがそろそろ帰路につくかという頃、僕はというと今日の仕事がやっとひと段落するという所だった。事務所でコーヒーを飲みながら休憩をしていた時、なんとなく見たスマートフォンの画面に通知が一件来ていることに気が付く。
“今から会えない?浜北公園にいる”
画面に表示されたのはたったそれだけの短いメッセージ。送り主は見なくても分かる。挨拶も前置きも理由もなにもかも書かれていない、ただ自分の希望だけを文字にした自分勝手な内容を送りつけてくるのは彼女しかいない。さんだ。夜に仕事をしているさんがこんな時間から会おうと言ってくるのは珍しい。今日は仕事が休みなのか、それともこれから出勤なのか。
さんはいつもこうして僕を軽率に呼び出す。バーで朝まで飲まされたり、サッカー場でゴール練習に付き合わされたり、彼女の行動は本当に読めない。それでも酔った時の細くなった目や甘い声だったり、ヒールを脱いで裸足でボールを追いかける姿が、僕は好きだった。
「九十九君、僕、ちょっと出てきていい?」
複数のモニターに向かっている九十九君の背中に問いかけると、椅子ごとくるりとこちらを向く。九十九君は僕の顔を見るなり、口角を上げて優しい微笑みを見せた。
「また、さんですか?」
流石九十九君というべきか、的確に言い当てられて思わずぎょっとする。何と返答したら良いか分からず「えっと」などと口にしながら言葉を濁した。
「ま、いいでしょう。どうぞ行ってきてくだされ。杉浦氏はさんに弱いですからねぇ」
九十九君は何故かとても嬉しそうな顔で僕を見る。たとえばこの台詞が八神さんや海藤さんだったら「やだなぁ」などといって表面上の否定をしたかもしれない。でも九十九君に言われると何の反応も出来なかった。全てを見透かしているような悟っているような彼の目には、自分にはない光が宿っていると感じる。
「ごめんね。出来るだけ早く戻るから」
僕はそう言って早足で事務所を出た。エレベーターで下り外に出ると、そのまま鶴亀街道でタクシーをつかまえ飛び乗る。運転に慣れたタクシードライバーはまるで雪の上をすべるかのように、あっという間に浜北公園まで僕を連れて行ってくれた。ドライバーにまとまった現金を渡し「おつりは大丈夫です」と言いながら車を降りる。
さんが居る場所は大体分かっている。いつもベンチに座ってボーッとしているか、海沿いの柵に寄りかかって海を眺めているかのどちらかだ。公園の奥まで早歩きで進むと、予想通り柵に寄りかかっている見慣れた背中が見えてくる。
「さん」
迷いなく声をかけると、さんはこちらに振り向き僕の顔を見た。まるで花が咲いたかのようにパッと明るい笑顔を見せると、「杉浦くん」と僕の名を呼びながら軽く手を振った。その様子を見るだけで、急いで来てよかったなと思えた。
僕はさんに近付き横へつくと、同じように海を眺める。
「それで?なんかあったの?」
「ううん。別に。杉浦くんの顔が見たかっただけ」
「なんだ。それなら九十九課に来てよ。僕、いつも大体あそこに居るってさんも知ってるでしょ」
こうしてさんに呼び出されることも、その呼び出しに応じて顔を見れることも僕は一向に構わないし、むしろ好きだ。だから別に理由も意味もなく呼び出されたことに嫌悪なんかない。それでも僕のこの気持ちを彼女に伝えるのはなんだか照れくさくて、遠回しに“そっちから来い”とでも言いたげな言葉を口にした。こんな態度や言い方は自分には似合わないと分かっているのに。
さんは僕のほうを見ると、ほんの少しだけ口を尖らす。そしてこちらから目をそらさずに僕の目を見続けたまま、海の方を指さした。
「杉浦くんと一緒に夕日を見たかったの」
指さした方向には、日が沈みかけている美しいオレンジ色の海が広がっていて、思わず息を飲む。僕が「綺麗だね」と口にすると、さんは「でしょ」と返した。まるで“この美しい光景は私が作りました”とでも言いたげな態度に思わず小さく笑う。
「なんだかんだ言いながら、杉浦くんはいつも来てくれるんだもん。ほんと、優しいよね」
海を眺めながら、さんは独り言のように呟いた。
「優しい」という言葉が嬉しくなかったわけじゃない。ただその一言で済まされてしまうのはなんだか癪だった。僕がさんの急な呼び出しに応じ、こうしてタクシーを使って急いでここへ来たのは、決して「優しい」からなんかじゃない。僕はさんに好かれたいから、さんのことが好きだから。
「さんだからだよ」
自分の正直な気持ちをハッキリと口にした。僕の声は届いていたはずだが、さんは目をそらさずに海を眺め続けていてこちらを見ることはない。その態度になんとなく悔しさを感じ、僕は顔を近付けた。さんの髪の香りが鼻をかすめる。
「僕がいつもさんの呼び出しに応じるのは優しいからじゃなくて、ただの下心だよ。僕、さんのこと、ずっと好……」
「ストップ」
早口で思いの丈を口にしようとした時、言葉の最後をさんの大きな声がかき消した。最後まで言わせてもらえなかった悔しさともどかしさで前のめりになっていると、さんはやっと海から目線を外し僕の顔を見た。至近距離で目が合い、心臓が跳ねる。
「私がいつも杉浦くんを呼び出してるのも、下心だよ」
さんはそう言って僕の首の後ろに腕を回すと、引き寄せて触れるだけのキスをした。柔らかな感触がしたと同時にすぐに離された“それ”は、触れたことが間違いだったのではと思うほどに一瞬だった。僕に顔を近付けたまま笑うさんの顔には余裕が感じられる。先ほど自分の気持ちを言葉にして伝えようとしたのに遮られた僕には、さんの表情で自分の中の悔しさが増すのが分かる。僕はさんの腰の辺りを掴んで引き寄せると、耳元に顔を近付けた。
「もう一回、してもいい?」
低く囁いてからゆっくりと顔を上げ、さんと目を合わせる。その顔はみるみるうちに赤くなっていって、初めは夕日のせいかと錯覚するほどだった。さんの方からしてきたくせに今更照れるなんておかしいだろうと思いつつも、それも彼女らしいな、なんて思ってしまった。
「もう一回してもいい?」だなんて言ってしまったが、さんが許可しようと拒否しようとどちらでもいい。むしろどうでもいい。彼女の中にある下心を引きずり出してやりたい。そして僕の中にある下心をさらけ出したい。そう思いながら僕はさんの口唇に噛みつく。心の中にある卑猥でどうしようもない感情とは裏腹に、公園を照らす夕日はどこまでも美しかった。
(2021.11.5)