※夢主が元喫煙者
在り香
コーヒーの良い香りがする。九十九課の事務所近くにあるコーヒーショップは広くゆったりとした店内で、いつもたくさんの客で賑わっている。はっきり言ってしまえば僕にはコーヒーの詳しい知識なんかないし、ただ普通に美味しいということと職場の近くという理由だけでここに通ってしまっている。
見覚えのある店員さんにいつものホットコーヒーと、小腹が空いていたためサンドイッチも一緒に注文した。トレイを持ったまま辺りを見回し空いている席を探すと、一人客が多く座っているカウンター席の一つが空いていた。迷いなく近付き、テーブルの上にトレイを置いてから椅子に腰を下ろす。
「文也?」
急に名を呼ばれ、驚きから反射的に声がしたすぐ隣の席を見る。そこには一人の女性がおり、コーヒーを片手に僕と同じように驚いた表情でこちらを見ていた。
「……?」
思わず名を呼ぶ。髪の長さも化粧の感じも服装もあの日とは全く違うけれど、目の前に居たのは確かにだった。こんな風に昔の恋人と遭遇するなんてことが現実にあるんだな、とどこか他人事のように思う。しかもここは横浜で、僕たちが出会った神室町からは離れている。もしかしてこれが『運命』なんていうやつだろうかと馬鹿げたことを考えてしまった。
はこちらへ身を乗り出すようにしながら顔を近付けて来る。
「うわぁ、びっくりした。何してんの?こんなとこで」
の言葉に、びっくりしたのはこっちのほうなんだけどと思いつつも口には出さない。何も答えずにトレイにのせたままのコーヒーに口をつける。いまさらながらに『しまったな』と思った。隣の席に元カノが居ると分かっていればこんな席に座らなかったのにと考えるも、こんなこと誰も予想出来るはずなんかない。
「文也は……、まだ、神室町に居るの?」
妙な含みを感じるの問いかけが引っかかる。僕は手に持っていたカップをトレイに置くと、横目での顔を見た。もしかしたら彼女にとっては睨まれているように感じるかもしれない。
「窃盗団ならもうとっくにやめたよ」
低い声を意識しながらそれだけを吐き捨てた。
僕たちが別れる原因となったのは他ならぬ窃盗団だった。僕は窃盗団であることをに打ち明けられずに居た。しかしも僕が隠し事をしているということに勘づいていたんだろう。当時の僕は八神さんを追っていたこともあり、関係は次第にぎくしゃくし始め、窃盗団であるという事実を打ち明けてからすぐに僕たちは別れた。いくら義賊とは言え、僕が盗みなどの犯罪を働く人間だと知り失望されたのだと思う。
も僕もなにも言わず、耳には店のBGMと喧騒だけが聞こえてくる。視線をカップに落とすと、黒い水面に自分の顔が映っているのが見えた。不機嫌そうな顔だ。本当はとまた会えて嬉しくてたまらないのに、それを隠すのに必死だった。冷静を装って、別にが居なくても僕は平気で生きて来れたから、と思ってもいないようなことを言ってやりたかった。
ふと気が付く。そういえばは僕と付き合っている時に煙草を吸っていたけれど、この店は分煙されているためここは喫煙席ではない。考えてみれば彼女から煙草の匂いなどもしなかったため、不思議に思った。
「、煙草やめたの?」
疑問に思ったことを率直に問う。は驚いたように目を丸くしていた。甘い記憶を思い起こさせるような久しぶりに見る表情に頬が緩みそうになる。
「なんでわかるの?」
「だってタバコの匂いがしないから。僕、いま探偵やってるんだよ。だから職業柄そういうの分かっちゃうんだよね」
「探偵?文也が?へぇ、すごいね!」
は丸くしていた目を更に大きく丸くして驚いていた。あの頃は義賊という形でしか生きられなかった僕も、今は探偵として一人でも多くの人を救いたいなどと生意気にも感じている。そんな僕の想いを知ったらはどんな顔をするのだろうか。
もう一度、横目でを見た。あの頃より少し長く見える髪は相変わらず綺麗で、化粧は少し濃くなったような気もする。逆に服装は落ち着いていて、もしかしたらいま付き合っている恋人の好みなのかもしれない。煙草を止めたのも恋人に言われたのだろうか。僕と付き合っている時は僕がいくら煙草を止めてと言ってもなかなか止めなかったのに。
「なんで煙草、止めたの?」
問いかけをしてからすぐに後悔した。しかし声になって口から出た言葉は取り消せるはずもない。僕はの方を見る勇気がなく、再び視線をカップに落とした。
「文也が……、嫌がってたから」
の答えに耳を疑った。例えば『今の彼氏が煙草はやめろって言ったから』とか『美容と健康のために』などという答えを想像していたため面食らう。落としていた視線を上げてを見ると、どこか戸惑ったように目を泳がせつつも僕を見ていた。
「煙草は、文也と別れてからすぐにやめたの」
どうしていまさらそんなこと言うの?と思いながらも、口に出して問いかけることは出来なかった。
僕は煙草が嫌いだけど、煙草を吸うの姿はとても好きだった。細くて長い指に挟んで、形の良い口唇で吸って、まるで突き放すかのように煙が放たれる。彼女とするキスはいつだって苦くて、不味くて、それでもどうしてか嫌いにはなれなかった。僕はに心から恋をしていた。のことが好きで好きでたまらなかった。
「そんなの……、僕と付き合ってる時にやめてくれれば良かったのに」
昔の想いに浸っていると、つい本音が口からこぼれていた。は困ったように笑いながら「そうだよね、ごめん」と言って自分の頬に手を当てていた。別に謝って欲しくて言ったわけではなかったため、僕は何も言えなくなった。
スマホのバイブ音が聞こえる。が鞄からスマホを取り出し画面を確認すると、慌てた様子で「もうこんな時間」と独り言を呟いた。
「行かなきゃ」
はその場に立ち上がり、テーブルの上にあった自分のトレイを手に取る。座ったままの僕を見下ろし、弱々しく見える笑顔を浮かべた。
「それじゃ……、またね、文也」
ありきたりな挨拶に何も返せず、僕はから目をそらした。もそれ以上は何も言わず、そのまま店を出て行った。店内にある大きな窓から街の雑踏に消えていくの背中が見える。
単なる社交辞令だと分かりつつも、『またね』だなんて良く言えたもんだなと思ってしまう。もう一度会える保証なんてどこにもない。『またね』なんてこの先二度とない。それなのにもう一度会いたいと切望している自分も確かに存在した。
去り行く彼女を引き留めて、あの日のように手を握って不味いキスをしたかった。いや、いまとキスをしたとしても煙草ではなくコーヒーの味がするのかもしれない。あの頃と同じ香りは、もうない。
もしもまたどこかで偶然にと会うことが出来たら、その時はそれこそ本当に『運命』とやらを信じてやっても良いかな。そんなことを考えながらカップに残っているコーヒーを飲み干す。覚えのある慣れたはずの苦味が、妙に強く感じた。
(2024.1.22)