ねぇ、僕もう無理だよ
「杉浦くん、おはよ」
時刻は午前八時半。さんは僕の名前を呼び、挨拶をしながら優しい笑顔を見せた。「おはよう」と挨拶を返しながら事務所を見渡すと彼女以外の人の姿は見当たらず、どうやら九十九君はまだ出勤していないようだった。いつもの九十九君であれば僕よりも早く出勤していることがほとんどのため珍しいこともあるものだなと思う。
さんは窓際に備え付けてあるシンクで小さなタオルを水に浸していた。それを軽く絞り水気を切ると、すぐ近くにあった長机、九十九君のデスク、来客用のテーブルなどを手際よく拭いていく。良く見れば床は綺麗で光を反射しているし、部屋に置いてある観葉植物の土の色を見ると水やりも終わっているようだった。掃除や水やりに至るまですべてさんがやってくれたのだろう。
僕はさんが好きだ。彼女がこうして朝早く出勤して事務所内を掃除してくれるのは僕たちや依頼人のためだというのは知っているが、そんな気遣いが出来るさんは素敵だと思う。まつ毛が長いことが良く分かる横顔はまるで彫刻のように綺麗だし、美しくまとめられた髪は解いたらどんな感じなのだろうと想像が膨らむ。そこまで小柄ではないし彼女自身は世間一般的に言う『か弱い女性』とは少し違う気もするが、僕はそんな所も含めてさんのことが好きだった。
「杉浦くん?」
名を呼ばれ、ハッと息を飲んだ。気が付くとさんが不思議そうにこちらを見ており、軽く首を傾げている。その時に僕はやっとさんに見惚れていたことに気が付いた。
「あ、もしかして眠いの?寝不足?」
さんは僕に近付き、覗き込むように顔を近付けると子供のようにニヤリと笑う。僕より少しだけ背の低いさんの上目遣いが妙に可愛く思えて心臓がうるさくなった。自分がひどく単純な人間に思える。そんな僕の様子にさんは微塵も気付く様子はなく、何かを想い出したように「あ、そうだ」と口にした。
「私コンビニ行ってきていい?昨日の夜何も食べないで寝ちゃったからお腹空いててさぁ」
さんはそう言いながら自分の腹部の辺りをさする。その仕草も可愛いな、なんてのぼせ上がったようなことを考えながら、何の返答もせずにさんを見つめた。黙り込む僕を不思議に思ったのか、さんは再び僕の顔を上目遣いで見た。
「あ、もしかして杉浦くんもお腹空いてる?何か買ってこようか?何が欲しい?」
さんの予想する答えはきっと『カフェオレ』だとか『菓子パン』だとか『ゼリー』だとか、そんな物だろう。しかし「何が欲しい?」と問い掛けられて『きみが欲しい』という言葉以外は出てくる気がしなかった。
きみが欲しい。もしその言葉を口にしたら、さんは一体どんな顔をするのだろう。自分の想いが通じるか通じないかは最早どうでも良く、僕の言葉でさんがどんな反応を見せるのかが気になった。僕のせいで心を揺さぶられて動揺するさんが見たいと思ってしまった。
「僕は……、」
そこまで口にした所で事務所内に低く唸るような音が響き渡る。それはさんのスマホだったようで、テーブルの上に置きっぱなしになっていた。さんは急いだ様子でスマホを手に取り画面を操作する。どうやら着信やメッセージなどではなく、単なるアラームのようだった。
「うわ、もうこんな時間!?依頼人が来ちゃう!ちょっと急ぎでコンビニ行ってくるね。杉浦くんは資料探してそこに出しといてくれる?九十九くんももうすぐ来ると思うから!お願いね!」
さんは早口でそう言うと、その場から猛ダッシュをしてエレベーターに飛び乗った。一瞬にして一人取り残された僕は呆然とし、さんが立っていた場所を見つめる。今更になって心臓が大きく、早く鳴り始め、息が浅くなったのを自覚し、思わず口元をおさえた。
僕はいま、『きみが欲しい』と口にしようとしていた。さんが僕のことをどう思っているのかとか、そんなことを考える余裕もないままに、ただ自分の欲望だけを口にしようとしていた。僕の言葉でさんがどんな反応をするのかが見たかった。僕のせいで動揺したり驚いたりするさんが見たかった。あわよくば顔を赤くして照れたり、脈のあるような反応を見せてくれたら良いなと期待した。
余裕のない自分をさんに見せたくなくて平然を装っていたが、だんだんとうるさくなっていく心臓の音と、熱を帯びていく頬に、自然と膝から力が抜けた。すぐ近くにあったソファに寄りかかるように座り込み、自分の額に手を当てる。熱があるのではないかと思うほどに熱かった。
僕はさんが好きだ。自分よりもまず人の気持ちを優先的に考えて行動する所も、仕事に真面目な所も、空回りしつつも一生懸命な所も好きだ。彫刻のように綺麗な横顔も、いつも可愛くしている指先も、美味しそうにご飯を食べる所も、全部、好きだ。
「あー、もう……、ほんと、……もう無理」
無意識にこぼれた独り言。さんが好きすぎて、自分の中にあるこの気持ちを抱え込んでいるのが『無理』だった。この気持ちを言葉にせず、このままさんの傍に居続けるのが『無理』だった。
先程さんが言っていた『今日事務所に来る予定になっている依頼人に関する資料』を探しながら、さんのことを考える。さんがコンビニから帰ってきたら好きだと伝えてみようか。いや、もうすぐ依頼人が来る時間だと言っていたし、お昼休憩の時にでもランチに誘ってみようか。いや夕食の方が良いだろうか。
ああでもないこうでもないと考えていると背後からエレベーターの扉が開く音が聞こえた。もうさんが帰って来たのかと思い振り返ると、そこにはさんではなく九十九君の姿があった。
「おや杉浦氏、おはようございます。今日は随分と早いですね」
九十九君は優しい笑顔を浮かべながらそう言うと、こちらに近付きながら持っていた荷物をデスクの傍らに置いた。僕は挨拶を返す心の余裕もないまま「九十九君」と彼の名を呼ぶ。
「あの、さ……、ちょっと相談したいこと、あるんだけど」
僕の急な言葉に九十九君は少しだけ驚いた様子だったが、すぐにその表情を崩し「はい。なんでしょ」と言いながら全てを悟っているような笑顔を見せた。
(2022.4.16)