愛じゃない
ムカつく。うざったい。イライラする。今の感情を言葉で表現しようと考えてみたら、ひどく幼稚な単語ばかり思い浮かんできて自分が嫌になった。
いら立ちの原因はいま隣に居る人、さんだ。僕はさんのことが好きだ。それこそもうずっと前から。なぜ自分の想いを伝えずにいたのかと言えば、それはさんに恋人が居たからだ。何度も浮気をして、さんを振り回して、それでもさんの心に居座り続けるクズ男。“あんな奴と別れて、僕と付き合ってよ”と何回口にしそうになったか分からない。
しかしさんはつい最近、やっとその男と別れたらしい。嬉しくなかったと言えば嘘になるし、別れたなら別れたでそこまではどうだって良い。問題なのはさんがまだその『元カレ』とやらに未練があるということだ。あんなひどい奴はさんに相応しくないし、やっと別れたというのに何を今更思い残すことがあるというのか。
「だって優しいんだよ、彼。そりゃ浮気とかされたけど、ほんとはすごく良い人だって知ってるし」
さんは僕の部屋でソファに浅く座り、酒の缶を片手にそう言った。それを聞きながら“世の中の大体の男はそんなもんでしょ”と心の中で独り言ちる。
さんにとって僕はただの友人であり、愚痴要員でしかない。彼女はこうして恋人と何かしらあった時、僕の部屋に来てひたすらに話を聞かせてくる。浮気をされただの、裏切られただの、大概は良くないことばかりだ。僕の気持ちも知らないで、なんて考えたこともあるが、自分の気持ちを伝える勇気もなくその努力もしない僕にそんな文句を言う資格なんてないんだろう。
僕はさんに気付かれない程度の小さな溜息をつくと、彼女の隣で同じ酒の缶を開ける。空気の抜ける音が部屋に響いて、爽快感のあるその音すらも今の僕には不快に思えた。
「やっぱり私も彼も、まだ“愛”があるんじゃないかな、とか、さ……」
まるで独り言かのようなさんの言葉に自分の頭に血がのぼっていくのが分かる。僕は酒を一口だけ飲んでから缶をテーブルの上に置いた。ムカつく。うざったい。イライラする。腹が立つ。癪に障る。もう何もかもが嫌になる。そんな感情とそんな単語が心の中を満たしていく。
「あのさ、さん」
大きな声で、はっきりとさんに呼びかけた。驚いたように目を丸くしてこちらを見ているその顔があまりにも愛おしくて憎らしいと感じてしまう。
「この世に男はそいつだけじゃないでしょ。僕だって男だよ。それともさんにとって僕って男じゃない?」
ずっと自分の中にだけ留めておいた想いが溢れ出し、止めることが出来なかった。さんは何も言わずに変わらないままの表情で僕を見つめている。身を乗り出し近付くと、さんが持っていた酒の缶を強引に奪い取り近くの床に投げた。既に中身は少なかったようで軽い音が部屋に響く。
こんな状況になっても、動揺するわけでも困惑するわけでもなく、なんの変化も見せないさんに一番腹が立つ。きっと僕の言っていることが理解出来ていないんだろう。もしくは理解出来ない“フリ”をしてこの場を誤魔化そうとしているのかもしれない。そんなことさせてたまるかと、僕は両手でさんの頭を掴み自分の方へ引き寄せ、至近距離でその瞳を見つめた。
「そんな奴の“愛”より、僕の“愛”にしときなって、言ってるの」
吐き捨てるように言うと、半ば無理矢理にさんの口唇を塞ぐ。僕の名を呼ぼうとする声が聞こえたが聞こえないふりをして、口唇でその音を消し潰した。こだわり抜いて選んだ座り心地の良いソファの上にさんの体を押し倒し、そのまま馬乗りになる。ジャケットを脱いで床に放り投げた時、自分の息が上がっていることにやっと気が付いた。
再び口唇を塞ぐ。角度を変えるとキスは深くなり、さんの柔らかな口唇を挟み込み、食べるかのように自身の口唇を動かす。さんが先程まで飲んでいた甘い酒の味がした。口唇を解放してすぐ、今度は耳元に顔を埋めながら右手を服の裾から中へ滑り込ませる。肌に触れるとさんの肩が大きく揺れた。
僕は最低だ。恋人と別れたばかりで、大きな未練が残っていて、傷心している彼女の心につけこみ、強引にキスをする。これが僕の“愛”?そんなのはまやかしだ。こんなのは“愛”なんかじゃなく、ただの“欲”だ。ずっと好きだったさんを僕のものに出来るというチャンスを逃さぬよう、必死になっている姿はきっと恐ろしく滑稽なんだろう。
ずっと好きだったんだよ僕、さんのこと。
一番伝えるべき言葉であり、一番伝えたい言葉。それを口にせずに飲み込む。初めて触れるさんの肌の感触に心臓が壊れそうなくらいに早く鳴っていたとしても、さんの味や香りに息が上がるほどに高揚していたとしても、いつだって僕の心を満たしているのはさんであったとしても、これは愛じゃない。所有欲、独占欲、性欲。全てが薄汚い欲望でしかないんだ。
(2023.10.9)