僕の指はきみだけを掻き乱す罠

 杉浦くんは私に何もしない。例えば肩がぶつかったり指先が触れ合ったり、そういった生きている上で回避不可能な接触が発生する場合はある。しかしそれ以上は何もしない。頬や髪に触れたりもしない。ハグだとか、キスだなんてしたこともない。その予兆すらもない。これがただの知り合いや友人関係ならば何ら問題はないだろう。問題なのは、私たちがれっきとした恋人関係にあるのに、というところだ。

 杉浦くんは完璧だ。顔はまるで俳優かと思ってしまうほどに整っているし、背も高くてスタイルが良い。運動神経も良いし、横浜で探偵の仕事をしているため正義感があってとても優しい人だ。私に一切の手を出してこないということだけが、唯一にして最大の欠点かもしれない。

 私たちが恋人関係になってから三カ月ほど経つが、杉浦くんと手を繋いだ記憶はあるようなないような感じで、キスなんてまだ一度もしたことがないし、杉浦くんはボディタッチすらもあまりしてこない。デートの時は毎回のように私のほうが何倍も緊張しているように思えるし、杉浦くんの家に初めて招かれた時は狼狽えてしまい、玄関で派手に転んでしまった。杉浦くんはそんな私を心配しつつも優しく笑って「そんなに緊張しなくても何もしないから大丈夫だよ」と言った。『何もしないから大丈夫』じゃない。逆に『何かしてくれないと困る』んだけど。そう思ったが口には出来なかった。

 言葉通り、その日の杉浦くんは私に何もしなかったし、一切触れてくることをしなかった。それどころか今までに何度も彼の部屋に遊びに行く機会があったが、いわゆる『何か』をされたことは一度たりともない。そして今日も私は杉浦くんの家に招かれ、大きなソファを背もたれにし、床にしかれたラグの上に座り込んでいる。隣には杉浦くんが同じように腰を下ろし、スマホで何かを見ているようだった。お互いに忙しい私たちはこうした『お家デート』が定番化している。

 私は隣に居る杉浦くんの横顔を見た。真っすぐ通った鼻筋が綺麗で、白い肌に血色の良い口唇が映える。なんか私、変態みたいだな。そんなことを考えながら横顔を眺めていると、私の視線に気付いたのか杉浦くんがスマホから目線を外し、こちらを見た。

「ん?どうしたの?」

 杉浦くんは軽く首を傾げるようにしながら私に問う。あなたが何故私に手を出してこないのか考えていました、なんて言えるはずもなく、私は「別に」と曖昧な返答をして杉浦くんを見つめ続ける。杉浦くんは「え、なんなの?」と言って無邪気に笑った。

 もうはっきり言ってムラムラする。いや間違えた。『ムラムラ』という表現は恐らく適切じゃないから言い直そう。はっきり言ってイライラする。いい加減キスぐらいしてきたって良いのではないか。かといってこの綺麗な顔に自分からキスをする勇気なんかない。思い通りに行かない現実と、自分の意気地のなさにイライラした。

さん?」

 杉浦くんは座り直すかのように身じろぎをしこちらに向き直ると、私の顔を覗き込むようにしながら距離を詰めた。吐息が頬に当たったのではないかと思ってしまうほどの距離に、顔が一気に熱くなり、頭に血が上ったかのような感覚になる。

 気が付けば私は杉浦くんの肩を掴み力を込めると、その体をラグの上に押し倒していた。杉浦くんの下半身の辺りを跨ぎ、馬乗りになる。衝動的だとか、『ついカッとなって』だとか、そういうのはこういうことを言うのだろうと他人事のように思った。

 押し倒してから数秒経ち、熱が冷めたように急に冷静になる。やばい、どうしよう。という言葉が頭の中を埋め尽くした。自分からキスをする勇気なんかないなどと考えていたくせに、何もかもをすっ飛ばして押し倒すなんてこんなのはただの痴女だ。奇行だ。今更ながら穴があったら入りたい気分になってくる。いやむしろ穴があったら入ってそのまま埋まってしまいたい気分だった。

さん」

 杉浦くんに名を呼ばれハッとする。杉浦くんは私に押し倒されているという意味不明なこの状況でも、至って普通の無表情を浮かべてこちらを見ていた。私はどうすれば良いか分からず、彼の呼びかけに返事すらも出来ない。

「……もしかして、どうすれば良いか分かんなくなっちゃってる感じ?」

 心を見透かされたように言い当てられ、顔が更に熱くなる。私の状況とは正反対に杉浦くんは余裕たっぷりに見えた。目を細め、優しいようなずる賢いような、どちらともとれる笑みを浮かべて私を見上げている。

「杉浦くんはなんでそんなに、余裕なの」

 自分の声が震えていることが分かった。この震えは緊張から来ているものであって涙声なんかでは決してない。こんなところで泣くなんてただのうざったい女でしかない。杉浦くんにそんな風に思われたくはなかった。

「キスだって、それ以上のことだって全然してこないから、こんなのもう私からするしかないじゃん」

 今まで絶対に口にしてこなかった素直な想いを吐き出すと、もうどうにでもなれと杉浦くんが着ているジャケットの胸元辺りを思い切り掴み、キスをしようと無理矢理に顔を近付ける。しかしそれは杉浦くんが直前で出した手によって阻まれた。口元を手で覆われ、私の口から「むぐ」と間抜けな声が漏れる。

「ねぇ、僕たちのファーストキスだよ。するなら、……もっとちゃんとしようよ」

 低い囁き声が聞こえたのと同時に、自分の腰の辺りに手が触れたのが分かった。そのまま思い切り掴まれ視界が反転する。気が付けば私たちの立場は逆転し、私の上に杉浦くんが馬乗りになっていた。

「杉浦く、」

 彼の名を口にしようとした瞬間、顔が近付いて来て口唇が塞がれた。まるで食べるかのように下口唇を挟み込まれ、リップ音と共にそれが何度もうごめく。ひどくなまめかしいキスだった。口唇が解放され、至近距離で目が合う。無造作に放り投げられていた私の手に、杉浦くんの手が重なる。指を絡ませるように強く握ってきたその手はとても熱い。

「僕だって、ずっとこういうことしたかったよ。好きな女の子に触れたくない男なんかこの世に居ないでしょ」

 『ずっとこういうことしたかった』という杉浦くんの言葉に喜びを感じつつも、それならば今までどうして手を出してこなかったのだろうかと疑問に思った。思わず眉間に皺が寄り、軽く首を傾げながら目の前にある顔を見る。杉浦くんはどこか満足そうな笑顔を浮かべながら、私の頬を撫でた。

「今更『待った』はなしだからね。僕だってずっと我慢してたんだから。さんの方から来てくれるまで」

 その瞬間、私は全てを理解した。彼は私の方から先に手を出してくるように仕向けていたんだ。今まで杉浦くんが手を出してこなかったのは、私の中にあるフラストレーションを溜めて、爆発させるため。私が杉浦くんを押し倒したのも彼にとっては計画通りだったというわけだ。

「ちょ、ちょっと、なに?まさか、私のことハメたの……!?」

「ええ?ハメたなんて人聞きが悪いこと言わないで欲しいなぁ」

「人聞きが悪いも何も実際ハメたわけじゃん!杉浦くん、可愛い顔してやることひどくない!?」

「あー、はいはい。文句なら後で聞くから。今は静かにして。ね?」

 杉浦くんは呆れたような声で言いながら私の顎を掴み、半ば無理矢理に口唇を塞いだ。隙間から舌がねじ込まれ、うごめき、呼吸を奪われたせいか頭がくらくらとする。服の裾から手が入り込んできて、杉浦くんの熱い手が肌に触れた。鎖骨の辺りに口唇を落とされ、それがだんだんと上に向かって這っていき、くすぐったさといやらしさに胸が苦しく、必死に呼吸をする。私の耳元に達した杉浦くんの口唇が低い囁きを紡いだ。

「三カ月も待ったんだよ。ご褒美もらってもいいくらいだと思うんだよね、僕」

 何が『ご褒美』だ。そんな風に考えてしまったけれど口にはしなかった。こんなひどい罠を張られ、はめられたとしても、杉浦くんを嫌いになるどころかますます好きになってしまう自分は最早救いようのない馬鹿なのだろうと感じる。これがいわゆる『惚れた弱み』というやつなのだろうか、とまるで他人事のように思いながら、口唇も体も呼吸も心も、全てを奪われるようなキスに酔いしれた。


‎(2023‎.9.13)‎