沈みたいんだよ、きみに
さんの夢を見た気がした。キラキラとして幸せなような、それでいでドロドロといやらしいような、不思議な夢だった。もしもさん本人にこのことを伝えたら、眉間に皺を寄せながら苦笑いで僕を見るんだろう。そんな表情すらも僕は好きだ。これもまた、もしも本人に伝えたら、小さくため息でもつきながら「やめてよ」なんて言うんだろう。
頭のなかを彼女のことでいっぱいにしながら、重いまぶたを無理矢理に持ち上げる。目の前には見慣れた白い天井があった。もう何億回と見て来た僕の部屋だ。ベッドから体を起こす気にもなれず、寝返りすらも億劫に思う。
昨夜はいつ、どんな風に眠りに落ちたのだろうと思い返す。そういえば昨日はさんと一緒に夕飯を食べてから、そのまま一緒に眠ったはずだ。彼女の夢を見てしまったのもそのせいなんだろう。
ふと自分の隣に目線を送ったけれどそこには何もなく、ただ皺の寄った真っ白なシーツが視界に入るだけだった。さんのことだからきっと僕を起こすのが忍びないと黙って出て行ったんだろう。リビングあたりに置手紙でもありそうだけれど、体はベッドに張り付いたまま動きそうにない。
ハァ、と小さな溜息をつき、自分のすぐ隣の何かがあったような痕跡の残るシーツを撫でる。手のひらに滑らかさを感じ、寄っていた皺が伸ばされたそれはまるで足跡一つない雪原のように見える。やっとの思いで寝返りをうとうとすると体に力が入らず、重力に負けた僕の体はシーツへ飛び込むかのようにうつ伏せに倒れ込んだ。
「う、」
思わず小さな声が漏れた。顔面に柔らかい布の感触がし覚えのある優しい香りがする。これはさんのにおいだとすぐに気が付いた。昨日も一昨日も、その前の日もいつだって彼女に触れたり抱きしめたりするといつだってこの香りが鼻をかすめる。
先ほどと同じようにもう一度溜息がこぼれた。寂しい。率直にそう思う。せめて僕の目が覚めるまで隣に居て欲しかった。なんてことを伝えたら、きっとさんは困ったように笑う。そう、困ったように。大切な人を困らせたくはないから、僕は僕の想いを胸の奥底に仕舞い込む。
うつ伏せていた重たい体を動かし何度も何度も寝返りを繰り返しながら、雪のように真っ白なシーツに残るさんの香りを探した。会いたい、寂しい、傍に居て欲しい。朝からこんな気分になるなんて最悪だ。しかしどんなに想おうと彼女はもうここには居ない。
さんが横たわっていたであろう部分に手のひらをあて、やっとの思いで体を起こそうとしたその時、寝室のドアが勢いよく開いた。
「文也くん、いつまで寝てんの」
そこには先ほどまで、いや、今現在すらも僕の頭を埋め尽くしている人物が立っていて、少しだけ不機嫌そうな顔でこちらを見つめていた。
「朝ごはん出来てるんだけど、食べるでしょ?冷めちゃうから早く起きて」
さんはそう言いながらこちらに近付き、まだベッドに横たわったままの僕を見下ろす。見慣れないエプロンを身に着けている彼女の姿とさきほどの言葉を聞く限り、僕のために朝食を用意してくれたのだろう。そういえばどこからか卵が焼けるような良いにおいも漂ってくるような気もする。
何も返答できずに茫然としていると、さんは眉間に皺を寄せ不思議そうな顔をしながら「文也くん?」と名を呼んだ。
「もう……、帰ったのかと、思ったよ」
ゆっくりと起き上がりながらまるで独り言のように呟くと、さんは目を丸くしたあとに少しだけ首を傾げながら何かを思い出すかのような表情をする。
「今日は私休みだから昼まで居るよ。てか、この話きのうしなかったっけ?あれ、どうだったっけ」
さんは言ったのか言っていなかったのかを自分で忘れてしまったようで、まるで何かを誤魔化すかのように笑って見せる。僕の記憶が確かならばその話は聞いていない。しょうがないなと思いつつも自分の中にあった寂しいという感情が愛しさに変わり、胸を満たしていくのを感じた。
ベッドから飛び降り、さんの腕を掴むとその体を自分の方に引き寄せて思いきり抱き締めた。髪に顔を埋めると先ほどベッドの上で必死に探した香りを思いきり吸い込む。その体はベッドよりも枕よりもシーツよりも柔らかく、滑らかだった。
「ちょっと、文也くん」
腕の中に居るさんが名を呼ぶ。その声色は驚いているわけでも焦っているわけでもなく、ただひたすらにいつも通りで、僕の好きな彼女の声。
「朝ごはん、冷めちゃうってば」
さんの言い分はもっともだ。僕は目が覚めた時、となりに彼女が居なかったことが寂しくて仕方がなく会いたくてたまらない気持ちになっていたというのに、人の気も知らないで朝ごはんの心配をするなんて。そう思ったけれど、いつでもマイペースなのも彼女らしいなと思い、少し笑う。
「あとちょっと、あとちょっとだけでいいから、……このままでいさせて」
僕は小さく呟いて、さんを抱き締めている腕に力を入れた。拒否権なんて与えない。もし彼女が嫌だと言ってもこの腕を離してやるもんか。そう思ったけれど、さんの返答は予想外なものだった。
「しょうがないなぁ……」
その声は小さくてか細くて、久しぶりに聞くようなさんの声に胸の奥が狭くなるような感覚に陥る。抱き締めている腕を更に強め、髪に口唇を落とすと彼女の香りが増し、先ほどとは違う幸福に溢れた溜息が口からこぼれた。
(2024.10.15)