悪魔

 依頼人宅からの帰り道、バンの中にはエンジン音だけが響いていた。運転席の杉浦くんはただ黙って前を向き、ハンドルを握っている。車を運転しているだけだというのに絵になる横顔だった。同僚として彼との付き合いはそれなりで、いまさら沈黙など気にもならない。なんとなく見たスマホの画面に表示された時刻は午後八時過ぎだった。

「ねぇ、さん」

 杉浦くんの優しい声が私の名を呼んだ。返事の意味を込めて彼のほうを見るものの、運転中のため当然ながら目は合わない。一応「ん?」と声に出して返事をする。

「ちょっとだけ、寄り道しない?」

 提案に特に驚きはしなかった。私たちは夕飯もまだのためお腹も減っている。九十九くんからは仕事が終わったら直帰しても構わないと許可を貰っているし、恐らくはどこかご飯にでも行こうということなのだろうかと解釈した。

「うん。いいよ」

 迷うことなく返事をすると、杉浦くんは一瞬だけ私の顔を見て軽く笑う。そしてその目線をすぐに前へと向けた。さて何を食べようかな、お酒も飲んじゃおうかな。そんなことを考えながら心地良い振動に揺られていると、車は何故かスピードを落とし、路肩に停まった。

 バンが停まった場所は浜北公園のすぐ目の前。ここには食事や飲酒が出来るような店などはない。寄り道ってここ?と杉浦くんに声を掛けようとするも、彼はエンジンを切りシートベルトを外して、流れるような動きで車から降りてしまう。

「え、ちょっと。杉浦くん?待ってよ」

 私も同じように車を降り、颯爽と何処かへ歩いて行こうとしている杉浦くんの背中を追いかけた。名を呼んでも立ち止まってくれる様子はなかった。

 遅い時間ではあったものの、公園には綺麗な夜景が良く見えるため人が多い。しかもその大半は男女連れ。やっぱりデートと言えば夜景なんだろうかとぼんやり考えた瞬間に気が付く。そういえば今日、二月十四日はバレンタインデーであると。

 ここ最近は仕事が忙しくバタバタしていたため、そんな行事のことなどすっかり忘れていた。ネットでバレンタインに関する広告を見たり買い物に行った際にバレンタインコーナーを見かけたりすることがあり、ああもうすぐバレンタインデーか、なんて思うことはあったものの、今日が二月の十四日であることにたったいま気が付いた。

 そんなことを考えながら、公園の奥へと進む杉浦くんの後をついていく。そもそも杉浦くんは何故こんな所へ寄り道しようと提案したのだろう。夜景を見て仕事の疲れを癒そうとしているのならその考えは分からなくもない。

 ふと、目の前の杉浦くんが立ち止まった。そこは公園内に建てられている店の影になっているため人の気配がない。しかし海の方向に目をやると夜景が美しく、少し離れた所に七色に光り輝く観覧車が見えた。観覧車なんて久しく乗っていないなぁなどと考えていると、杉浦くんがこちらに振り返り、何かを差し出す。

「これ。さんにと思って」

 杉浦くんが手にしていたのは、四方が十センチにも満たない程度の小ぶりな箱。差し出されたそれを反射的に受け取り、まじまじと見る。箱は蓋の部分が透明になっており、中が見えるデザインになっていた。入っていたのは小さな黒い薔薇が一つ。周囲には小さな名も知らぬ花が散りばめられデコレーションされている。恐らくはプリザーブドフラワーという物だろう。黒い薔薇を見たのは初めてだったので珍しいなと思う。

「なにこれ?」

 思わず問いかける。杉浦くんは「花だよ」と返してきたけれど、いやそういうことじゃなくて、と突っ込みたくなってしまった。この箱に入っているのが黒い薔薇で、お花であることは分かっている。私が知りたいのは、何故杉浦くんからお花を渡されたのかということだ。混乱し、眉間に深い皺を寄せたまま杉浦くんの顔を見ると、彼はフッと笑って言った。

「それは、僕からのバレンタインプレゼント」

 バレンタインデーという物は、元々海外などでは男性から女性に贈り物をすることが多いと聞く。日本でも近年は性別に関係なくプレゼントし合う人が増えていると聞くため、杉浦くんがこうして私にお花をプレゼントしてくれるのは決して間違ってはいないんだろう。しかし私は今日がバレンタイン当日だということをすっかり忘れていたため、杉浦くんに贈るような物を何一つ持っていない。

「ごめん、私、杉浦くんに何も用意してない……」

「いいよ別に。僕があげたかっただけだから」

 杉浦くんは優しい笑顔を浮かべたけれど、なんだか申し訳なさを感じてしまう。ホワイトデーにちゃんとお返しをしなくてはいけないと一か月後の心配をしながら、お花の入った箱に目線を落とす。ふと視界が暗くなり、自分に影が落ちたことに気が付いた。

さんは、黒い薔薇の花言葉、知ってる?」

 影の次に落ちて来たのは聞き慣れた杉浦くんの声だった。お辞儀をするように腰を折った杉浦くんの口唇が耳元に近付く。顔を上げる勇気がなかった私は、そのまま箱の中にある薔薇を見つめていた。花言葉に詳しくないため杉浦くんの質問には答えられない。

「……知りたい?」

 杉浦くんのそ言葉は煽りに聞こえた。未だ顔を伏せたままの私の耳の下辺りに杉浦くんの手が差し込まれ、半ば無理矢理に上を向かされる。杉浦くんは私を見下ろしたまま静かに口を開いた。

 ――君はあくまで僕のもの。

 口唇がその言葉をかたどる。聞こえるか聞こえないか程度の囁き声はあまりにも刺激が強く、顔が熱を帯びていく。あくまで僕のもの、だなんて自信満々の言葉はきっと杉浦くんじゃなきゃ許されないんだろうなと思いながら目を閉じる。口唇に柔らかくて暖かな感触がした。

 ホワイトデーには、私も杉浦くんにお花を送ってみようか。あまり詳しくないから分からないけれど、薔薇でも良いしそれ以外のお花でも良い。花言葉は「あなたにはかなわない」だとか「もう降参です」だとか「どうにでもして」だとか、そんな感じの物があれば良いのだけれど。なんてことを考えながら杉浦くんを見る。私を見下ろして笑うその笑顔があまりにも妖艶で、不敵で、まるで黒い薔薇のようだった。


‎(2022‎.2.14)‎
‎(2025‎.2.14)加筆修正