フォーリングダウン

 かっこいいだとか、綺麗だとか、可愛いだとか、顔面の造形美をあらわす言葉はこの世にいくらでもあると思う。そしてそのどれもが杉浦くんには当てはまってしまう。彼はとても美形だ。私が今までの人生の中で出会った誰よりも美形だと思う。しかし杉浦くん自身は顔について言及されるのが苦手なようなので、私はそれを本人に伝えたことは一度もない。

 そんな杉浦くんと一緒に仕事をしている私はというと、至って普通の凡人の中の凡人だ。可もなく不可もなくと言ったところなのだろう。人から言われる誉め言葉と言えば『良い奥さんになりそうだね』、もしくは『見ていると癒されるね』のどちらか。勿論そのような言葉を貰って嬉しくないことはない。しかしそれ以上具体的に言及されないということは、そういうことなのだろう。

 自分のことは別に嫌いではない。私はあくまで『モブ』。例えば主人公のように活躍したり、ヒロインのように誰かと結ばれたりはしない。まるで背景かのような私が杉浦くんとどうなろう、などと、ありもしないことは考えたりしない。……そのはずだった。

さん、ごめん。そこの資料取ってくれる?一番手前にある赤いファイルのやつ」

 杉浦くんはそう言って、私を見つめながらデスクに散らばっている資料のいくつかを指さした。「うん」と軽く返事をしながら、彼から見て一番近い場所にある赤いファイルを取る。それを差し出すと、杉浦くんは私から目をそらさないまま「ありがと」と言って目を細め、ファイルを受け取った。その瞬間、杉浦くんの手と私の手が触れる。

 ここ最近、いや、しばらく前からこういうことが続いている。杉浦くんは「そこのペン取って」だとか「コーヒー豆ってどこだっけ」などと言って私に何かしらの物を取らせがちだ。そして彼に渡す時に必ずと言って良いほどに手が触れる。たとえば私がペンの端っこを持っていても、コーヒー豆の袋を手のひらの上に乗せていても、何をどう渡しても必ず手が触れる。目を見つめ微笑みながら「ありがと」とお礼を言う杉浦くんの表情は、まるで私が動揺している姿を楽しんでいるかのように見えた。

 はっきり言って杉浦くんはちょっと変だ。事務所での仕事中にふと顔を上げると目が合って微笑みかけてきたり、何かと呑みに誘ってきたり、頻繁にメッセージや電話をよこしてきたりもする。こんなのはまるで私に気があるみたいじゃないかと思ってしまう。そんな思考に陥るたびに私はいつも頭を振る。いやいやいや、あんなにかっこよくて、性格も良くて、運動も仕事も出来て、欠点なんかなさそうな完璧な人が私に気があるなんて、そんなことあるわけないじゃない、と。

 ある日の朝。いつも通り九十九課に出勤すると事務所にはまだ誰も居なかった。今日は特に目立った仕事はないはずだ。早めに帰れれば良いなぁと思いながら、棚に貼られたスケジュール表を眺める。始業まではまだ時間があったため少し掃除でもしようかと思い立った。

 そういえば事務所の正面口から出たすぐの所にある窓の汚れが少し前から気になっていたことを思い出す。しまっておいたマイクロファイバークロスを取り出すと、それをシンクの水で濡らしてから窓を拭きはじめた。きゅう、きゅう、とガラスを擦る音が響く。

 その時、背後でエレベーターの大きな稼働音がした。ドアが開くような音とほとんど同時に振り返ると、そこには杉浦くんが立っていた。

「おはよう」

「おはよう」

 どちらからともなく挨拶をし、どちらからともなく挨拶を返す。私はすぐに窓の方へと向き直り、杉浦くんに背を向けた。

 ここ最近は杉浦くんに翻弄され、彼のことを考える機会が増えたため、なんとなく気まずさを感じてしまう。『もしかして杉浦くんは私に気があるんじゃないか』なんて、そんなのは勘違いも甚だしいと自分でも思う。彼は主人公で私はモブだ。地味で影が薄くてどこにでも転がっている石ころのように平凡すぎる私は、身分をわきまえているつもりだ。杉浦くんが私のことを好きになるはずなどなく、きっと何もかもが気のせいなのだと。

さん、なにしてるの?」

 背後から杉浦くんの問いかけが聞こえる。私は振り返らずに窓を拭きながら「掃除だよ」とそっけなく返した。きゅう、きゅう、というガラスを擦る音が鳴り続ける。その合間に靴音が混ざった。杉浦くんのスニーカーの音だ。

さんってさ……、僕のこと……、嫌い?」

 先ほどよりも杉浦くんの声が近くなった。すぐ後ろに彼の気配を感じる。何故そんな風に私に近付くのか、何故そんな問いかけをするのか、何もかもが分からずに混乱した。

 私は窓を拭く手を止めて振り返る。杉浦くんは怒りとも悲しみとも呼べない複雑な表情でこちらを見下ろしていた。見たことがない彼の表情に動揺したが、それを表に出さぬよう冷静を装う。

「や、やだなぁ……、杉浦くんのこと嫌いな女なんてこの世に居ないでしょ」

 ハハ、という乾いた笑いと共に冗談っぽく返答する。とりあえずは杉浦くんの肩でも軽く叩こうか。そう思い彼に手を伸ばした瞬間、素早く伸びて来た腕に手を掴まれた。痛みなどは感じない。それでもまるで心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃があった。

「この世の女の人がどうとかじゃなくて、『さんが僕のことを嫌いかどうか』、を訊いてるんだけど?」

 杉浦くんは低い声で言うと、掴んでいる私の腕を壁に押し付けながら距離を縮めてきた。彼なりに気を遣っているのだろう。力は弱く、その気になれば振り払うことなど容易い。しかし私の体は動かなかった。動かそうとしても動かないのではなく、動く気が起きなかった。

「僕、さんが好きなんだ。だから、……嫌いにならないで」

 変わらぬ低い声が落ちて来る。心臓が飛び出しそうな程にうるさく鳴り続け、体中の熱が顔に集中しているかのような感覚がした。恐らく今の私の顔はこれ以上ないくらいに赤いのだろう。視界がゆるゆると歪み、手に持っていたクロスが指の隙間から床へと落ちたのが分かった。

 杉浦くんは私の顔を凝視すると、フッと息を漏らしながら笑う。いつもの見慣れた笑顔であるのに、緊張は解けない。

さん、その顔は反則だよ。僕、我慢出来なくなっちゃう」

 綺麗な顔が一気に近付いてきて、目の前に大きな影が落ちる。微かに濡れたような柔らかい何かを口唇に感じた。杉浦くんのいつもの明るい髪。いつもの声。いつもの香り。いつもの綺麗な顔。飽きるほどに見慣れた美形がこれまでにないほどにはっきりと私に訴えかけて来る。『もしかして杉浦くんは私に気があるんじゃないか』という感覚は、勘違いでも気のせいでもないのだと。


‎(2024‎.3.12)‎