※杉浦が痴漢に合う描写有り

怖いものなしの僕ら

 僕は今日、生まれて初めて痴漢にあった。

 近場での調査を終えてからの帰り道、珍しく電車移動をしようとしたのが大きな間違いで、丁度帰宅ラッシュだったためか乗車率がかなり高かった。満員電車なんか久しぶりだななどと呑気に考えていると、背後に居る人が不必要に距離を詰めてきている感じがした。混んできたのかなと思っていると、自分の腰の辺りに妙な感覚を覚える。そしてそれは段々と下がってきて、最終的に辿り着いた先は僕の臀部……、つまりお尻だった。

 たとえば思いがけずに触れてしまっているとか、持っているバッグが触れているとか、そういう可能性はいくらだってあるし、僕もまずそれを考えた。しかし僕のお尻に触れている手はゆっくりと指先を動かし、明らかに僕のお尻を撫でた。心の中で思わず、うわぁ……、と思う。もしかして誰かのお尻と間違えて触っているのでは?とも思ったが、周囲に女性の姿は見当たらない。

 次の駅に着くまで僕のお尻を撫で続けた変態野郎は、腕を掴んで捻りあげ駅員に突き出してやった。体を触られたという屈辱はあるものの、僕の周りに居た人たちが被害に合わなかっただけでも良いだろう。半べそをかきながら謝罪を続ける男に、謝って済む問題ではないし泣くくらいならこんなこと最初からやるなよと感じる。そして最後に心の底からの軽蔑の眼差しを浴びせてやった。

 九十九課に戻り、世間話ついでに痴漢の話をさんにすると、彼女はひどく驚き同情してくれた。悲しいことではあるが、こういう迷惑行為は女性が被害者になる可能性の方が高い。だから僕が屈辱的な想いをしたということを分かってくれたのだろう。

「僕、痴漢なんて初めて合ったんだけどさ、ほんと、人のお尻なんか触って何が楽しいんだか。女の人たちが頻繁にああいう被害に合ってると思うとゾッとするよ」

 僕が愚痴をこぼすと、さんはそれを聞きながらコーヒーをいれてくれた。マグに入った真っ黒な液体から湯気がいくつも立ち上っている。それをぼんやりと見つめていると、ふとさんが僕を覗き込むようにして顔を近付けた。突然の距離の詰め方に驚き、少しだけ身を退く。

「ねぇねぇ杉浦くん、ちょっとその場に立ってみて」

 姿勢悪くソファに体を預け、浅く座っていた僕は、さんの言葉に迷わず立ち上がる。何故そんな風に言われるのか不思議だったが、特に理由は聞かなかった。さんは後ろに回り込んで、僕のお尻を一度、音を立ててぺしりと叩く。それはまるで幼い子供が悪戯をして母親に叱られた時のように思えた。

「え、なに……?」

 驚きと戸惑いを隠せず、後ろに振り返りさんの顔を見ながら問いかけると、何故かさんも僕と同じように戸惑っているような表情で目を丸くしていた。

「あ、お祓い?てきな?」

 “お祓い”という言葉の意味が一瞬分からず、動きが止まる。恐らくさんなりに痴漢にあった僕を励まそうとしてくれているのだろう。まるで「痛いの痛いの、飛んでけ!」とでも言い出しそうな彼女のその様子に思わず笑った。

「え、ちょっと、お祓いって、なにそれ、面白すぎ」

 堪え切れない笑いをこぼしながら、途切れ途切れの言葉を口にする。腹筋に力を入れているせいかお腹の辺りが痛くなってくるのが分かった。僕の笑いにつられてさんも笑い出し、目を細くしながら「ごめん」と繰り返す。

 暗く、沈んでいた屈辱的な気持ちが驚くほどに晴れてくるのが分かる。きっと“お祓い”なんかなくたって、さんの笑顔が見れればそれで良かったのかもしれない。さんに話して良かった。彼女がそばに居てくれて、僕を癒してくれる存在で居てくれて本当に良かったと心から強く思う。

 僕はゆっくりとさんに近付き、首の後ろに手を回して抱き着くようにしながら顔を近付けた。

「ねぇ……、こんど電車移動する時は一緒に居て?僕のこと守ってよ。変態野郎から」

 少し背の低いさんを見下ろしながら言う。間髪入れず「もちろん!」と返ってきたが、すぐに何かを考えるかのようにさんの眉間に皺が寄る。

「あ、いや、でも……、出来れば杉浦くんには守られたいかなぁ。女としてはさ……やっぱり……うーん……」

 言いにくいと感じているのか、最後の方は声が段々と小さくなり聞き取れなくなる。その後もぶつぶつと何かをぼやいているさんに顔を近付け、髪に口唇を落とした。

「分かったよ。守ってあげるから、僕のことも守ってよね」

 さんの目を見つめ、返事を促すように首を傾げる。さんは照れくさそうに笑いながら「ありがと」と小さく呟いた。


‎(‎2022‎.‎3‎.‎6‎‎‎)‎