追い詰めろ、夜
その日の仕事終わり、杉浦くんから「どっかで飲んでかない?」とお誘いを受けた。特に用事もなく、元々どこかで飲んでから帰りたい気分だった私は迷わず誘いに乗った。杉浦くんが連れて行ってくれたのはお洒落なバーで、恐らく個人経営なのだろうが広くゆったりとした店内は何とも言えない大人な雰囲気が漂っていた。こういう時に居酒屋などではなくこういったバーを選択する所がいかにも杉浦くんらしいような気がしてしまう。
しかし、杉浦くんがスマートなのはそこまでだった。長いカウンターの奥の席に座り、いくつかのお酒を飲んですぐに杉浦くんは酔ってしまったようだった。彼がお酒に強いという印象はないが、逆にここまでお酒に弱いという印象もなかったため不思議に思う。もしかしたらここ最近の激務のせいで疲労が溜まっていたのかもしれない。
「ちょっと、杉浦くん、大丈夫?」
声をかけたが、杉浦くんからは「んー」という気の抜けた声しか返ってこない。丸くなった背中に手をあてると、体が妙に熱を持っているように思えた。恐らくはお酒のせいなのだろう。
「ねぇ、気分悪いならもう帰ろう?明日に響くよ?」
顔を覗き込むようにしながら言うと至近距離で目が合う。杉浦くんはまぶたが重いのか目が細くなっていて、柔らかな瞳がこちらを見つめてくる。彼の表情は明らかに酔っていると言えたが、同時に酷く妖艶に思えた。
「……帰りたくない」
低い囁きが聞こえたのと同時に、杉浦くんは姿勢を正すように丸くなった背中を真っ直ぐにする。そしてすぐに手がこちらに伸びて来たかと思うと肩を掴まれ、体が近付いた。
「今夜は、帰りたくない。朝までずっとさんと一緒に居たい」
その言葉を聞いた瞬間は驚きつつも、どこか冷静な自分が居た。
例えば、短いスカートに肩の出た露出の多い服が似合う美しい人が意中の男性に向かって「私、今夜は帰りたくないわ」なんて言ったら、男性はときめいてしまったりするんだろう。そんなシチュエーションに合う台詞をまさか杉浦くんの口から聞くことになろうとは思わなかった。彼は明らかに深く酔っている。
「す、杉浦くん、飲みすぎだよ。ちょっと待ってて。いまタクシー呼ぶから……」
妙に緊張し、声が震えた。バッグの中からスマホを取り出し、タクシーの配車アプリを起動させる。早くこの状況をなんとかしたいと思い、画面に指を滑らせようとした時だった。杉浦くんが私の手からスマホをかすめ取り、後ろ手に隠す。そのスムーズすぎる動作に、さすが元窃盗団なんて思ってしまった。
「さんっていっつもそう」
杉浦くんの眉間に皺が寄る。その不機嫌そうな表情にほんの少しの怯えを覚えつつも、あまり見る機会のない杉浦くんの姿に心臓が早く鳴った。杉浦くんは私から奪ったスマホをカウンターの上に音を立てて置くと、先ほどと同じように顔を近付け、囁く。
「そうやっていつも僕のことはぐらかすの、ほんとずるい。さんも帰りたくないって言って。言うまで帰さないから」
大きく熱い手が自分の腰の辺りにまわったのが分かった。体のラインをなぞるように動くそれが、私の呼吸を浅くさせる。なんの返事も口に出来そうになかった。
“「帰りたくない」と言うまで帰さない”。どう転んでも帰れないことはたった今確定した。そして私は酔っぱらった杉浦くんの、この溶かされそうなほどに熱い手から逃れられないんだろう。綺麗な顔が近付いて口唇と口唇が軽く触れ合う。何もかもが熱いのはきっとお酒のせいなのだろうと思うことにした。
(2022.4.7)