ユリイカ

 バリスタの仕事は好きだ。自らが選んだ道であるし、長い時間の中で身に着けたコーヒーや飲み物の知識を駆使し、ホッと一息がつける瞬間を提供出来ることにやりがいを感じていた。ラテアートの技術を磨いたり、気持ちの良い接客を考えたりして、お客さんに喜んでもらえる。そんな素晴らしい仕事だと僕は思う。しかしここ最近はあまりにも忙しすぎて、はっきり言って疲弊しきっていた。

 長く住んでいたビーバークリークという田舎町を出て、9歳まで住んでいたシアトルに戻って早数年。ここには老舗のコーヒーショップや誰もが知るような有名店がとても多い。僕が勤める店はまだまだ駆け出しで、この街では生き残ることだけで精一杯だった。それこそ毎日のように、お客さんを呼ぶため従業員総出でアイディアを出し合ったり、新しいメニューを考えたりしているため、頭がパンクしそうだ。

 今日も店を閉めたのは定刻通りだったにも関わらず、自宅に帰るため車に乗り込んだ時には既に午後の10時を回っていた。長く店に残り、今後展開するキャンペーンについて考えていたためだ。もちろん残業代なんて出るはずもない。溜息をつくのと同時にエンジンをかけたが、大きな稼働音に僕の溜息は掻き消された。

 夜の街に車を走らせる。今日の晩御飯はどうしようか。明日から入る新しい従業員の教育もしなければならない。次の休みはいつだっけ。そんなことを色々と考えていると、目の前の信号が赤になり、ブレーキを踏んで車を停める。信号待ちの間にふと窓の外を見ると、夜空にぼんやりと月が浮かんでいた。厚い雲に取り囲まれており、今にも覆い掻き消されそうな儚さを感じる。

「元気かな、……

 思わず独り言を呟く。ビーバークリークでの生活の中で出会った、幼馴染の女の子。小さな頃からずっと一緒で、クリスを交えた三人で良く遊んでいた。成長してからも交流は続き、僕がビーバークリークを発つ前日の夜にに呼び出された時のことをぼんやりと思い出す。あの日の夜空にも似たような月が浮かんでいたような気がする。

“きっと都会は淋しくて、ビーバークリークが恋しくなるよ”

 はどこか遠くの方を見ながら呟いていた。いつもの元気でやかましい彼女とは正反対におとなしかったので、違和感を覚えた記憶がある。その態度が僕には“言いたいことを隠している”ように見えた。もしかしたらあの時のは僕と同じ気持ちだったのかもしれない、なんて酷く自惚れたことを考える。

 本当はシアトルにきみを連れて行きたい、なんて言えなかった。僕がいつかビーバークリークに戻るその日まで待っていて欲しい、とも言えなかった。あの時、に僕の気持ちを告げていたらどうなってしまうだろうと思うと怖くて何も言えなかった。彼女を困らせるだけなんじゃないかと尻込みした。いつもお喋りな僕たちだったけれど、不思議なくらいにお互いが黙り込んでしまって、まるで雲に隠されて夜空から消えた月のようだった。

 いつの間にか信号が青に変わっており、走り出さない僕の車に向かって後続車がクラクションを鳴らす。ハッと息を飲み、想い出に浸っている自分を記憶の海から引っ張り出すと、アクセルを踏み緩やかにスピードを上げた。こんな風に昔好きだった女の子のことを考えてしまうのは、きっと酷く疲れているせいだ。いや、“昔好きだった”んじゃない。“今でも好き”なんだ。あの日言えなかった僕の本当の気持ちを、今なら言える気がした。いま目の前にが現れたら好きだと言ってしまいそうな気がした。

 自宅アパートに到着し、いつもの場所に駐車した。エンジンを切るとヘッドライトが消え、辺りが暗闇に包まれる。夜空に浮かぶ月だけがぼんやりと周囲を照らしているが、この程度ではあまりにも心もとないな、などと思いながら車を降りた、その時だった。

「やっと帰ってきた。遅すぎ」

 背後から声をかけられる。聞き覚えがあり、先ほど浸った記憶の海に残して来た大事な音だった。振り返り、声の主の顔を見る。そこにはが立っていた。眉間に皺を寄せ、口を尖らせた表情はとても不機嫌そうだ。腰に手を当ててふんぞり返っているようなその態度は、僕よりも背が低いにも関わらず、僕を見下しているように思える。

「なんで……?」

 あまりにも突然の出来事に驚きすぎてしまい、その先の言葉が出ることはなかった。きっと今の僕は魚みたいに口を開け閉めすることしか出来ない間抜けな姿だろう。は眉間の皺を更に深くしながら、こちらに大股で近付く。

「ちょっと。今日ダニエルんとこに行くってメッセしたんだけど。まさか見てないの?返信ないから変だとは思ったけどさ」

 そう言われ、自身のポケットに入っているスマホを取り出す。今日はあまりにも仕事が忙しかったためスマホを見る暇がなかった。と言うよりも、そもそもスマホを見るということすら忘れていた。通知のランプが光っており、確かにからのメッセージは受信されている。素早く画面を操作して確認すると、『今日そっち行くから。何時なら家に居る?』という簡潔なメッセージが表示された。きっと住所は僕のおばあちゃんかお母さんあたりにでも訊いたのだろう。

 スマホに落としていた目線を上げて、を見た。先ほどの不機嫌そうな顔は幾分か緩和されているように見える。口をへの字にしてフンと鼻を鳴らすその仕草はまるで“ほら、私はちゃんとメッセしたでしょ”とでも言いたげだった。そんな彼女の姿は昔と全く変わっておらず、思わず笑う。

「帰ってくる時、のこと思い出してたんだ。に会いたいなぁって、ずっと考えてた」

 何の意図もなく、素直に思ったことを口にした。するとは一瞬だけ驚いたように目を丸くしたかと思うと、すぐに口角を上げてニヤリと笑って見せる。

「そこでご本人登場ってやつ?最高じゃん。私とダニエルはやっぱ運命共同体ってやつなんだね」

 はそう言いながら僕の首の後ろに手を回し、顔を近付ける。表情と声色と仕草から、彼女が口にしたのは冗談で、僕をからかっているだけなんだと分かっていた。それでも僕は至極真面目に「うん」と返事をする。は違和感を覚えたのかほんの少しだけ眉を歪ませていた。僕は油断している彼女の腰に素早く両手を伸ばして掴むと、自分の方へ引き寄せた。更に顔が近くなり、口唇が触れ合いそうな距離だった。

「僕たち、結婚しない?」

 僕の言葉には何も言わなかった。ただ口を半開きにして、無表情のままこちらを真っすぐに見つめていた。回されていた腕が解かれ、は僕の胸の辺りを強く押して距離を取る。口唇が触れ合いそうなほどに顔が近かった瞬間は彼女の表情が確認出来たが、距離が出来た今ではそれが分からない。

「なに、言ってんの、いきなり結婚って」

 の声は震えていた。確かに彼女の言うことは最もだ。好きだ、という言葉すら伝えていないのに、それら全てを端折っていきなりプロポーズなんて馬鹿げている。今更ながらに恥ずかしくなってきた僕は「ごめん」と呟き、下を向いた。

「謝らないでよ。別に、ダメだって言ってるわけじゃ、ないし」

 声が聞こえたのと同時に、僕の頬にの手が触れる。俯いていた顔を優しく上げさせられると、目の前には薄暗い中でもはっきりとわかるほどに赤くなった顔があった。動揺し震える視線が僕に突き刺さる。思わずの手に自分の手を重ね、優しく握る。指の先までが酷く熱い。もしかしたら僕も同じように顔が赤くなっていて、その熱がの指に伝染したのかもしれないなどと、まるで他人事のように考えた。

「ねぇ、僕がビーバークリークを発つ日、は何を考えてた?何を言おうとしてた?」

 問いかけながら、の逃げを防ぐように今度は僕が彼女の頬に触れた。驚くぐらいに熱く、手のひらが溶けそうだった。照れているのか動揺しているのか細かく瞬きをしている瞳は潤んでいるように見える。はそんな表情を僕から隠したいのか、こちらから顔をそらそうとした。

「なにを、今更。そんなのもう分かって……

「分かってるよ。でも、の口から聞きたいんだ。だから、言ってよ。お願い」

 の声を掻き消すように自分の声を重ね、そらそうとした顔を無理矢理にこちらへ向けさせた。

 僕にはもう分かっている。きっとは僕と同じ気持ちだった。自惚れだと言われても構わなかった。僕はの傍にずっと居たいと思っていたけど、きっともずっと僕に傍に居て欲しいと思っていたんだ。数年前の夜と同じように、頼りない光を放つ月がいま僕たちの頭上にもある。更に増えたのであろう雲に覆い隠され灯りは段々と弱まり、消えてしまうのは時間の問題だ。

「私は、ダニエルのこと、ずっと、……」

 が震える口唇で何かを言おうとする。それは僕にしか聞こえないくらいとてつもなく小さな声で、僕が予想している言葉で、僕が一番聴きたいと思っていた言葉そのものに違いないんだろう。