沈み方をきみが教えて
ダニエルは危うくて、情緒不安定で、気まぐれで、自分勝手で、今にも壊れてしまいそうな男だった。私が傍に居たとしても声をかけることもなく何処かに消えてしまったり、反対に急に現れてみたりもする。ダニエルは一人で眠ることはなく、私が傍に居ない時は一晩中海を眺めているらしい。そして翌日、顔を合わせるなりひどく不機嫌そうな顔でこちらを睨む。『何処に行ってたんだよ』、という言葉を吐きそうな表情をしているくせに、口にすることはない。
私を拒むこともなければ、反対にしつこく絡んでくることもない彼は、自分から私に触れるということはなく、逆に私に触れられるまで待つ。本当は甘えたいのだろうに、それをしない。ダニエルはそんな人だった。私は彼が好きだったが、ダニエルからどう思われているかは分からない。飼い猫に『美味しいエサをくれる都合の良い人間』と思われる飼い主かのような存在かもしれない。それでも彼の傍に居られるならそれで良かった。
ある日、いつものようにダニエルの家を訪れるとテーブルの上にメモが置いてあった。何かの切れ端かのような小さなそれをなんとなく手に取って見ると、『電話して』という文字と電話番号らしき数字が羅列されている。メモの端には『イネズ』という名前らしきものも書き記されており、女性だろうと予想した。メモを持ったまま辺りを見回したが部屋には誰も居ないようで、海に面した外へ繋がる扉を開けると、テラスに座り込んでいるダニエルの背中が見えた。
「イネズって誰?」
名を呼ぶこともなく単刀直入に問いかけた。ダニエルは首を僅かに動かしこちらを横目で見ると、数秒間黙り込む。手に持っていたビールの缶を傍らに置いてから、これみよがしに盛大な溜息をついた。
「……さぁ?忘れた」
なんてひどい言い草なのだろうと思う。しかし彼のその言葉に嘘偽りはなさそうだった。ダニエルは他人に興味がない。そういう心境になってしまったきっかけのような出来事が過去にあったのだろうが、詳しくは知らなかった。
電話番号を渡してきた『イネズ』という女性とダニエルは、その辺りの飲み屋か何かで出会ったのだろう。ダニエルは顔が整っているため見ず知らずの女性に言い寄られることも少なくはない。しかし、他人との接触を極端に嫌うダニエルが自分から人に関わろうとすることなど決してない。そんな彼なのに、何故私だけは傍に置いてくれるのかが分からなかった。このメモをテーブルに置いたままにしたのもきっとわざとだ。私にメモを見つけさせて嫉妬でもさせたかったんだろう。
私はダニエルに近付くと、その隣へ同じように腰を下ろした。目の前には水平線だけが広がっており、波の音とすぐ隣に居るダニエルの呼吸音しか聞こえない。ダニエルは置いていたビールを手に取り口へと運ぶが、どうやら私のぶんのビールはないようだった。私はメモをダニエルに差し出す。彼はそれを一瞥した後、何も言わずにビールを一口だけ飲む。喉仏が上下して、流れ込んでいく液体が目に見えるようだった。メモを受け取らないダニエルに向かって私は「ん」と声を出し、もう一度メモを差し出す。ダニエルの眉間に皺が寄ったのが分かった。
「は僕に電話して欲しいの?そのイネズって人に」
ダニエルの顔はまるでこちらを睨むような目つきだった。私に嫉妬させるために分かりやすくメモを置きっぱなしにして、その上でそんな質問をしてくるなんて意味が分からない。
「ダニエルはその質問にどう答えて欲しいわけ?好きにすればって突き放して欲しい?しちゃヤダって言って欲しい?好きな方をしてあげるよ」
気持ちに余裕があるようなふりをしてそう言った。ダニエルはこちらを睨んだまま、チッと小さく舌打ちをする。そして私が差し出していたメモをひったくる様に奪い取ると、片手でグシャグシャと握りつぶして遠くの砂浜に向かって投げた。メモだった物は浜辺の砂に紛れてどこかへ消える。
止める隙もないような一瞬の出来事に呆然としてしまった。そんな私に構うことなく、ダニエルはフンと鼻を鳴らしてこちらから目を背けるようにどこか遠くの方を見る。表情は見えないが私には分かっていた。きっと今のダニエルは結んだ口をほんの少しだけ尖らせて、不機嫌そうな顔をしているんだろう。そんな子供っぽい仕草をする所が私は嫌いではなかった。
「ダニエルは本当に、私を振り回すのが好きだね」
独り言のように呟く。どこへ消えたのかも分からないメモを拾いに行くためその場に立ちあがると、ダニエルが私の腕を掴んだ。それを引くようにしてダニエル自身もその場に立ちあがる。掴んだままの私の腕を放す気はないようだった。
「振り回してるのはどっちだよ」
ダニエルの声は今までに聞いたことがないくらいに小さくて、その表情は今までに見たことがないくらいに悲し気だった。目を伏せ、私の顔を見ようとはしないため、視線が交わることはない。
「好きな方をしてくれるんだろ。電話しないでって、電話しちゃ嫌だって、……言ってよ、」
まぶたが細かく震えていた。海に反射している光がダニエルの長いまつ毛を照らしている。他人に興味がなく、関りを断ち、人を信用しないはずのダニエルが私に甘えようとしているのが分かった。
「しないで」
小さく囁いてから、ダニエルの震えるまぶたに口唇を落とした。すると、首の後ろに手が回り半ば無理矢理に体を引き寄せられる。ダニエルは私の頭を抱えるかのようにしながらまるで猫のように髪に頬ずりをした。その仕草は、忘れていた甘え方を想い出しているかのように思える。
危うくて、情緒不安定で、気まぐれで、自分勝手で、今にも壊れてしまいそうな男が私に手探りで縋り、依りかかっている。その全てを受け止めるように彼の背中に手を回した。私はダニエルに、ダニエルは私に依存する。それでいい。私たち二人ならどこまででも落ちて行けそうな、そんな気がした。