※自死願望の描写有り
泣いてる君を僕に放り出してよ
今すぐに死にたいと思った。家にも学校にもネット上ですら居場所がなく、私が私でいられるのは精々お風呂かトイレの中くらい。ただ漠然と死に場所を求めて彷徨い歩き、気が付けば見知らぬ森の中に居た。そこは野生動物の姿すらもない静かな森で、大きなセコイヤの木がいくつもそびえ立っている。中には折れて倒れた物もあり、例えばこれがバランスを崩し転がってきたら私を押しつぶして殺してくれるのに、とぼんやり思う。
少し歩くと大きな湖があった。日が沈みかけているこの時間帯は空も水面もオレンジ色に染まっていて、その美しさに息を飲む。景色をまだ“美しい”と感じられる自分になんとなく嬉しさを覚えた。気が付けば視界が歪み涙が頬を伝う。泣いている理由なんか自分でもわからなかった。ただ目の前にあるこの美しい景色の中に溶け込みたい。この湖で死んでしまいたい。そう思った。手の甲で涙を拭うと湖をもう一度見る。
恐らく服は脱がないままの方が簡単に溺れられるだろう。靴は脱ごうかどうしようか。いま履いている靴は唯一のお気に入りの物だから天国まで履いていきたいという気持ちもある。いや、自らを殺す私のような人間はきっと天国になんか行けない。一歩、二歩と湖に近づく。今の季節はとても冷たいのだろうと容易に想像出来る水面はまるで私を誘うように揺れている。あと一歩近づけばつま先が水に触れるというその時、背後で草木が揺れる音がした。
「なにしてるの?」
同時に声が聞こえ、驚いた私は反射的にその方向へ振り返る。そこには一人の男の子が立っていた。歳は明らかに私より下だろう。伸びきったボサボサの髪は額を完全に隠していたものの、彼の大きな瞳がこちらを見つめているのが分かる。
「あ、えっと、その……」
彼の問いかけにどう答えようかと考えながら曖昧な言葉を返す。こんな所に人が居るなんて予想もしていなかったため軽くパニックになっていると、男の子は無遠慮にこちらに近づき私の顔をまじまじと見た。
「おねえさん、どこから来たの?この森に住んでるの?」
「ま、まさか。その、ちょっとキャンプに来ただけだよ」
当たり前だがキャンプに来ただなんて大嘘だ。しかし今出会ったばかりの、しかも自分よりも年下であろう彼に“死ぬためにここに来た。そしていま湖に入って溺れ死のうとしている”なんて言えるはずもない。しかし彼は目を細め睨むような顔でこちらを見ており、どうやら私の言ったことが嘘だと勘付いたらしかった。
「こんな季節にキャンプ?夏なら分かるけど、今は冬だよ」
その的確な言い返しに私はウッと息を飲む。そう言う彼こそこんな時期にこんな所で何をしているのだろうと思いつつも何も言い返せない。体の両脇にぶら下げていた手を強く握ると、こちらを見上げ続ける彼の目を見つめて言った。
「死にたくて、ここに来たの」
私の言葉に彼は大きな目をさらに見開き、理解が追い付かないのか数回瞬きを繰り返す。言葉が見つからないといった様子で口唇を微かに動かすだけで何も言い返してはこない。私は彼から“なにそれ”とか“どういうこと”などの言葉が飛んでくることを予想していたため、少し拍子抜けした。彼は見開いていた目を元の大きさに戻し、私から視線を外すとどこか物悲しそうに顔を伏せる。
「僕、ダニエル。おねえさんの名前は?」
予想していた言葉が飛んでくることもなく、そのうえ急に名を問われて少し驚いた。名乗るべきなのかそうではないのかと一瞬迷いはしたものの、ダニエルと名乗った彼が自分にとって悪い人間には思えず、私は閉じていた口唇を開いた。
「だよ」
「どこから来たの?」
「え、スコティアってとこ。ここからちょっと遠いけど……」
「ここまでどうやって?」
「バスとか、色々乗り継いで……」
「何歳?」
「15歳だけど」
「ショーンより年下だ」
ショーンって誰だろう。そう思いつつもダニエルの質問攻めに答えていく。会話をしながらダニエルは私のすぐ隣まで移動して湖のほとりに腰を下ろす。なんとなく私も同じように腰を下ろし、目線は二人とも湖の方に向いていた。
彼が本当に聞きたいことは先ほどの質問の中には入っていないのだろうということは分かっていた。会話が急に止まり、怖くなった私は恐る恐る隣に居るダニエルの方を見る。彼はゆっくりとこちらに顔を向けると、無表情のまま私を見つめた。
「なんで死のうと思ったの?」
攻めるような口調でも悲しそうな表情でもない。ただ無表情の、それでも何処か真剣なまなざしでダニエルは私に問う。その質問には答えたくなかった。答えられないと思った。先ほど会ったばかりの名しか知らない男の子に、みじめな自分の人生など語りたくはない。ダニエルは何かを察したのかそれ以上は何も聞いてこなかった。こちらに向けていた顔を湖の方に戻し、どこか遠い場所を見つめているような寂し気な目をすると小さなため息交じりに声を漏らす。
「僕のお父さん、死んじゃったんだ。あと、マッシュルームっていう世界一可愛い犬も飼ってたんだけど、死んじゃった。すごく悲しかった」
その言葉は私に語り掛けているのだろうが、まるで独り言のように小さな声だった。ダニエルの人生や家族構成なんか知らないしどうでもいい。そう思いつつも、いま隣に居る私よりも小さな男の子は世の中に存在する不条理な悲しみと向き合ってきたのだな、と感じた。そんなダニエルはきっと私よりも大人なのだろう。大切な存在の死と向き合ってきた彼の横顔は、夕日に照らされてとても凛々しく見える。
「が死んだらきっと悲しむ人が居るよ。だから、死なないでよ」
ダニエルの言葉に今までのことを考えた。親は私に興味がなく突き放されて育った。学校のクラスメイトは私が見えないフリをして透明人間扱い。SNSだって無意味な数字ばかりに捕らわれている人ばかりで私の居場所なんかない。果たしてこの中に居る人に私の死を悲しんでくれる人が居るだろうか。悲しむどころか何も思わない、むしろ喜ぶ人が居るのではないだろうかとすら思ってしまう。
「私が死んだって誰も悲しまない」
考えていたことが率直に口から出ていた。きっといまダニエルは困ったような顔をしているのだろう。面倒臭い思考の人間だなと私を軽蔑しただろう。早くここから離れて誰も居ない場所でひっそりと死のう。そう思い、その場に立ち上がろうとした瞬間だった。私の肩に暖かな何かが触れた。それはダニエルの手で、覗き込むようにしながら顔をこちらに近づける。鋭い目つきでまるで私を叱るような訴えるような表情をしていた。
「僕が悲しむよ。だから死なないで、」
視界が歪みだし、涙がこぼれそうだった。たったいま出会ったばかりでお互いの名しか知らないのに、何故ダニエルの言葉がこんなにも心を揺さぶるのだろう。“死にたい”という想いの中に“死にたくない”という想いがほんの少しだけ湧き上がってくる。もう少しだけ生きてもいいかなぁ、とぼんやり思う。私の目の中に溜まっていた涙は限界を迎え頬を伝っていく。するとダニエルの手が伸びてきて、指先を滑らせながら頬の涙を拭ってくれた。
年下の男の子にこんな風に泣き顔を見られるなんて格好悪すぎる。そう思ったが、きっとダニエルは私よりもずっと大人だ。体は小さいし身長も私より低いけれど、“小さな大人”という言葉がぴったりとあてはまるような気がした。
私は“生きる理由”を探せるだろうか。例えばダニエルの髪が伸び私の身長を追い越し“小さな大人”だった彼が“大きな大人”になった姿を見られるだろうか。それならばもう少し、もう少しだけ死なずに生きてみようか。そんなことを思いながら夕日に照らされたダニエルの顔を見る。彼の目にオレンジ色の湖が映っていて、もしいつか私が死ぬとしたら彼の目の中で溺れ死にたい。そう思った。