愛する準備はできている
ダニエルとは10歳の時からの親友で、高校生になった今でもつるんでいる。何処かへ遊びに出かけたりすることもあるが、最近はお互いに学校の成績が下がってきたためどちらかの家に集まり自主的に勉強会のようなものを開くことが多い。しかし私もダニエルも二人とも勉強が嫌いなため、ゲームやら漫画やらで集中力を乱されることも珍しくなかった。
その日も私はいつものようにダニエルの部屋に行き二人で勉強をしていた。彼の部屋には狭い勉強机があるが、私たちは並んで座りその机を無理矢理に二人で使う。いつだったかダニエルはおじいちゃんに新しい勉強机を買ってもらうと言っていたけど、いつになるんだろう?
狭い勉強机に広げられた教科書には赤いマーカーがたくさん引いてある。今度学校でテストが行われる予定だが、私はそこである程度まともな点数を取らないと一週間外出禁止にするとママに言われたばかりだった。ダニエルも似たような境遇らしく、二人でなんとかしようと思い開いた勉強会だったが、ダニエルは教科書とノートを目の前にしながら漫画を読んでいた。
「ちょっとダニエル、やる気あんの?次のテストまでもう時間ないんですけどー?」
「んー……、分かってるよ。あとちょっとだけ読んだらおしまいにするから」
ダニエルはそう言ってパラパラとページを数枚めくったあと、そのまますぐに漫画を閉じて小さな溜息をついた。彼の気持ちは分かる。誰だって大嫌いな勉強なんかしないで漫画を読んだりゲームをしたりしたいものだろう。しかしまずはテストだ。それさえ乗り切れば漫画だってゲームだって好きなだけ出来る。
まだ勉強をし始めてからたいした時間も経っていないというのに、ダニエルの顔はどこか疲れ切っていた。私は彼の肩に手を置いてそこをポンポンと叩く。
「ほら、もうちょっと頑張ろ。これが終わったらダニエルの好きなチョコクリスプでも食べよーよ」
それはダニエルを励ましつつも自分自身を励ます言葉だった。私は勉強が嫌いだし楽しいと思ったことなんか一度もない。しかし大好きなダニエルと一緒に居られることはとても嬉しいことだし、これが終わったらおやつを食べながら彼と一緒にゲームをしたり漫画を読んだりすることが出来る。そう思えば大嫌いな勉強も少しは頑張れる気がした。
「……ん」
私の言葉にダニエルは弱々しい声で小さく返事をする。彼の大好物である“チョコクリスプ”の名前を出せば少しはやる気を出してくれるかもしれないと私は考えていたため、その反応は意外に思えた。
そして私はすぐに、ああまたか、と心の中で呟いた。ダニエルは目の前の私の顔を見ながらも、まるで私の頭越しにどこか遠くを見ているような目をする時が多々ある。そしてそんな目をした後、大概は眉をほんの少し寄せ、口唇をキュッと締め、どこか寂しそうな表情をしながら目を伏せる。彼の長いまつ毛なんか見飽きていた。
なぜそんな顔を頻繁にするのか。理由を彼に尋ねることはしなかった。何故なら、なんだか私のような人間が踏み込んではいけない領域な気がしていたからだ。ダニエルの家庭環境はとてつもなく複雑で、私もすべてを把握しているわけではない。両親ではなく祖父母と暮らしている彼はきっと母か、父か、その二人でもない誰かに思いを馳せているのだろうと勝手に解釈していた。
しかし少なくとも私と一緒に居る時は笑っていて欲しいと思うのは、わがままなのだろうか。私はダニエルの笑った顔が好きだ。歯を見せて、いつもより少し高い声で「あはは」と笑うダニエルが好きだ。彼には笑っていて欲しいと強く思う。
「なんでいつも、私を見てそんな悲しそうな顔すんの?」
無意識に疑問が声になって口から出ていて、私は思わずハッと息を飲みながら口元をおさえる。しかしそんなことをした所で言葉が口の中に戻るわけでもない。ダニエルの“踏み込んではいけない領域”に土足で入ろうとしている自分に嫌悪しつつ、恐る恐る彼の顔を見た。
ダニエルは驚いたように目を丸くして私の顔を見ていた。その表情に怒りや悲しみといったマイナスの感情は見て取れず、例えるなら“予想もしていなかった指摘をされて驚いている”というような顔に見えた。
「僕、そんな顔してた?」
首の後ろに手をあてながらダニエルはそう言い、驚きの表情を崩し困ったような笑顔を見せる。彼の言葉に私は迷いなく頷き“イエス”だと返事をすると、ダニエルは溜息のような笑い声のような曖昧な息を吐き、小さく「まいったな」と呟いた。
「ショーンのこと思い出してたんだ」
ダニエルは再び寂し気な表情をしながら話し始めた。
“ショーン”。その名は遥か昔、まだ幼かった頃にクリスから聞いたことがあった。ダニエルがこのビーバークリークに初めて来た時、彼の傍には高校生ぐらいのショーンというお兄さんが居たのだと。クリスはショーンに会ったことはあるが、ダニエルが再びビーバークリークに来た時に彼の傍にお兄さんは居なかったらしい。
「はショーンに似てるんだ。目が似てる。僕を見る目が優しくて穏やかで、すごく落ち着く。でも同時にさみしくなるんだ。会いたいなぁって、気持ちになる」
ダニエルは私の目を見つめ優しく微笑んだ。ああ、この表情だと心の底から感じる。私が好きなダニエルの笑顔はこれなのだという気持ちが胸に溢れた。
きっとショーンは、この世の誰よりもダニエルを大切に思っていたんだろう。いつもダニエルを優しく見守り、心から愛していたのだろう。そんなショーンと私の目が似ていると言われ、おこがましいと思いつつもほんの少し嬉しい気持ちにもなる。
しかし、その兄であるショーンが今どこでどうしているのかは、私は知らない。ダニエルの反応を見る限りは恐らくもう何年も会えていないのだろう。寂し気な表情をするということは、私を見るたびにショーンを思い出させダニエルをつらい気持ちにさせているのかもしれないと感じた。
「ショーンって人のこと思い出すの、つらい?」
ダニエルの眉が歪み、戸惑ったような表情で私を見た。この質問は無神経だったかもしれないと少しだけ後悔したが、それでも止められなかった。ダニエルに聞きたかった。“私はあなたの傍にいて良いの?”と。
「ダニエルは私と一緒に居るの、嫌?」
まるで自分で自分の首を絞めているような気がして、目の奥が熱くなり涙がこぼれそうになる。ダニエルの顔を見ているのがつらく顔を伏せたが、下を向いたことによって余計に涙が落ちそうになり、失敗した、と心の中で呟いた。
次の瞬間、横から伸びてきた手が私の肩を掴んだ。大きな手のひらに強い力で揺さぶられ、伏せていた顔を無理矢理に上げさせられる。ダニエルはこちらにグッと顔を近づけると、私たちの鼻先が今にも触れ合ってしまいそうな程の至近距離で叫んだ。
「なに言ってるの!逆だよ!にはこれからもずっと傍にいて欲しいと思っ……
言葉が途中で止まる。内心私は“うるさいからこんな至近距離で叫ばないで”と思っていたが、目の前にあるダニエルの顔がみるみるうちに赤く染まっていく様子に目を奪われた。ダニエルは私の肩から手を離し、自分の口元を手で押さえながらのけ反るようにして距離を取る。
「ご、ごめ……、ごめん!今のなし!今のなし!」
慌てた様子で同じ言葉を繰り返すダニエルの顔は先ほどよりも更に赤く、まるでそれが伝染したかのように自分の顔も熱くなってくるのが分かった。恐らく私も彼と同じように赤い顔になっているに違いない。
“にはこれからもずっと傍にいて欲しいと思っ……”
先ほどダニエルが途中まで口にした言葉を頭の中で繰り返した。聞き取れた“ずっと傍にいて欲しい”という言葉に期待せずには居られなかった。自惚れだと言われても構わなかった。私は中断された言葉のその先が聞きたい。ダニエルの口から、直接。
「……最後まで言ってよ」
ダニエルの目を見つめながらまるで独り言のように呟くと、彼の顔がより一層赤くなるのが分かった。もはや耳や首までが赤く、これ以上赤くなったら死んでしまうのではないかとすら思う。
「いや、その、……そんなことよりほら、勉強!勉強しよう?は次のテスト頑張らないと外出禁止にされるんでしょ?ね?頑張らないと!」
わざとらしく大きな声を出しながら、ダニエルは机に向き直り教科書やノートをバサバサと動かした。さっきまで勉強を放り出して漫画を読んでいたような彼に「頑張らないと」などと言われたくないと思いつつ、私はフゥと一息ついて同じように机に向き直る。
この熱くなった顔も、未だに瞳にたまり続けている涙も全部ダニエルのせいだ。こんな気持ちでどうやって勉強に集中すれば良いのかと思いながら、赤いマーカーが引かれた教科書をぼんやり見つめる。
「……」
弱々しくも聞き慣れた声が私の名を呼んだ。その方向を見る勇気がなく、机の上の教科書から目を離さぬまま「なに」と返事をすると、ダニエルは弱々しい声のまま低く囁いた。
「今度のテスト、終わったらちゃんと言うからさ……、もう少しだけ、待っててよ」
ボキッ。ダニエルの言葉に私が手に持っていたシャーペンの芯が折れる音が重なった。自分の顔が再び熱くなるのが分かり、横目でチラリと見たダニエルの耳も相変わらずに赤い。顔を恐る恐るダニエルの方向にゆっくり向けると、彼も同じように私の方に顔を向けた。
ずっとこのままで居たいような、早くテストが終わってダニエルの言葉を聞きたいような、矛盾した複雑な気持ちが胸を満たしていく。ダニエルは私の目を見ながらフッと笑い、その表情には見慣れた“寂しさ”は感じられなかった。