合図に触れる
メキシコで暮らし始めて約六年ほどの月日が経った。僕が家のことを手伝えるようになると家事は僕とショーンで分担制となり、僕が買い物と料理で、ショーンが洗濯と掃除の担当だった。
そろそろ日が沈むという時間帯。僕は両手に買い物袋を持って家までの帰り道を小走りしていた。もうショーンは今日の仕事をとっくに終えているだろうし、早く家に戻って夕飯の準備をしなければ。今日はインスタント食品をいくつか買ったから、それで簡単に済ませてしまおう。
町のはずれにある人の気配がほとんどない海沿いに僕たちの家はあり、道の向こう側に家が見えてくるとなんだかホッとして小走りのスピードを落とした。一階はリペアメンテナンス店のスペースとなっており、予想通りそこには既にショーンの姿は見当たらない。おそらくは僕たちの居住スペースがある二階に居るのだろう。
家の中に入りすぐに階段を駆け上る。ただいまの挨拶をするよりも先に買い物袋をダイニングテーブルの上に置いて、中身を出すために袋の中に手を突っ込んだ。
「ちょっとショーン、やめて」
その時、奥の部屋の方からショーンではない誰かの声が聞こえた。そしてその声には聞き覚えがあり、声の主にも心当たりがあった。僕は買ってきた物を袋から取り出そうとするのをやめ、声のした方向へゆっくりと近づく。
なんとなく音を立てないようにしながら奥の部屋を覗き込むと、そこにはショーンとが居た。はこの家の近くに住んでいる女の子で、歳は確か僕の一つ上。少し前からうちに来ては料理や洗濯を手伝ってくれたり食べ物を分けてくれる。恐らくどこかで僕たちが男二人で住んでいると聞いたのだろう。彼女の“世話焼き”に、あまり人と関わりを持ちたくないと考えているショーンは良い顔をしなかったけれど、はっきり言って僕はとても助かっていた。何故かと言えばの作る料理はとても美味しかったし、洗濯も掃除もショーンより上手だったから。
どうやらもショーンも僕の姿には気づいていないようで、二人に“ただいま”と声を掛けようとして口を開いた。しかし声を出すより先にショーンがの腕を掴みグッと顔を近づける。まるで“恋人同士”かのような距離感に僕は思わず出そうとした声を飲み込んだ。
「いい加減にしろ。俺がお前の気持ちに気付かないとでも思うか?」
二人がまとう空気は張りつめているようで、何か意見の食い違いから言い争いをしているように見えた。そしてショーンが口にした「お前の気持ち」という言葉と、まるで今にもキスでもしてしまいそうな二人の距離に僕はピンとくる。これはもしかしてテレビとかで良く見る“痴話げんか”という奴ではないだろうか。
ショーンとが恋人同士であるなんて話は聞いていないし、何より二人がそこまで親しいとは思えない。歳の近い僕とはそれなりに仲が良いと思うが、ショーンがに興味を示すことなど今までにあっただろうか?
それでも二人の雰囲気は明らかにおかしく、なんだかいかにも“痴情”という感じだった。この“痴情”という言葉自体、僕はあまり理解出来ていないけれど。
「は、離してよショーン。お願いだから」
「お前が自分の気持ちをちゃんと言うまで離さねぇよ」
言い争う二人は未だに僕の存在には気づいていない。なんだか心臓の鼓動がどんどん早く大きく鳴り、呼吸が上手く出来ずに二人から目をそらした。ガタンという物音が聞こえ、恐らくとショーンどちらかの体が何かにぶつかったのだろうと予想する。
なんだかお腹のあたりが苦しかった。胃がキリキリと痛くなるような、胸の奥の方がぎゅうと締め付けられるような、そんな感覚がして下口唇を噛む。
もしかして僕はいま、“傷ついている”のだろうか。いま目の前に広がっている光景に?ショーンがと付き合っているかもしれないということに?ショーンに恋人が出来たかもしれないということに?
いや、違う。僕はそんなことに傷ついているんじゃない。僕はがショーンのモノであるかもしれないということに傷ついているんだ。いつも僕たちのところに来て美味しい料理を作って優しく笑ってくれるが、僕のためではなくショーンのためにここに来ているのかもしれない、ということに。
今まで微塵も考えたことはなかったけれど、もしかしたら僕はのことが好きなのかもしれない。そう思うと胸が苦しくなるのと同時に顔がどんどん熱くなってきて、どこからか汗がにじみ出て来た。
何かが壁を叩くようなドン、という音が聞こえ、僕は二人からそらしていた目線を再びそちらに向けた。ショーンはを壁まで追い詰めたようで、手をついて彼女の逃げ場をなくしていた。今にもキスをしてしまいそうなその状況に、僕は一旦この場から離れようと音をたてないようにしながら一歩踏み出した、その時だった。
「俺は全部分かってるんだよ。お前がダニエルに色目使ってることぐらいな」
ショーンの言った言葉の意味が一瞬分からず思考が停止し、思わず、は?という声が漏れそうになる。一歩踏み出したまま体が固まり、背中で二人の会話を聞いた。
「色目って……人聞きの悪いこと言わないでよ。私は別に……」
「“別に”?」
「いや、その、私は別に……、その、色目とかそんなんじゃなくて、ただ、……その」
「なんだよハッキリ言えって」
何度か交わされる二人の会話を聞いても話が読めず、僕は踵を返し再び二人の方向へ目線を戻す。ショーンがを壁まで追い詰めている状況は変わらないが、の顔が見たことがないくらいに真っ赤になっていた。
「私は、ただ普通にダニエルが好きなの。……それだけだよ」
ショーンが口にした言葉以上にの言葉が衝撃で、僕は顔が一瞬にしてカッと熱を帯びたのを自覚した。思わず声を出しそうになり手で口元を覆うと、手のひらに顔の熱が伝わりまるで溶けそうなほどに熱い。視界に映るの顔はとても赤かったが、きっと今は僕の顔の方が赤くなっているだろう。
「私はダニエルが好き」。先ほどの言葉が頭の中で繰り返されぐるぐる回る。体中が固まったまま動かず、視界がぼんやりと歪んでくる。
は僕を好きだと言った。確かなその事実に泣き出したいほど、叫び出したいほどの嬉しさで胸が満たされる。ああそうか、は僕が好きなんだ。ショーンでもない、他の誰でもない、僕のことを好きなんだ。
「やーっと認めたか。ったく!」
大きな声が僕の思考を引き裂いた。ショーンは顔を真っ赤にしているのことなど気にも留めていないように、壁についていた手を離して迷わずこちらに近づいてくる。物陰に隠れるように立っていた僕の肩に手を置いてニヤリと笑うその表情は、見慣れた兄の顔だった。
「俺、外で夕飯食ってくるから。あとは若い二人で仲良くやれよ。じゃーな」
そう言ってそのまま一階へと降りる階段の方へ向かう。その行動と言葉は、明らかに最初から僕がここに居て話を聞いていたことが分かっていたようだった。しかし僕はショーンに何も言い返せないまま、ただ熱くなる顔を隠すみたいに小さく頷くことしかできない。
「ダニエル!?い、いつからそこにいたの!?」
僕の存在に気が付いたがこちらを見ながら叫ぶ。その質問にどう答えようかと考えつつゆっくりに近づくと、真っ赤な顔が僕を見上げていた。涙が出そうなのか瞳の表面が揺らめいていてとても美しく、とても愛おしいと感じる。
「えっと……ラビオリ、買って来たんだけど……ショーンのぶん要らなくなっちゃったし、が食べる?」
そう言うとは真っ赤な顔のまままるで壊れたおもちゃのように何度も何度も頷く。その仕草がとても可笑しくて、同時に可愛らしくて、僕は思わず笑い声を漏らしながら無意識に手を伸ばした。の頬に触れるととても熱くて、そこから伝染するかのように僕の顔も熱くなる。
「真っ赤だ」
まるで独り言のようだったその呟きはに対して言ったのか、それとも自分へ対して言ったのか良く分からない。ただ目の前にあるの頬から伝わる熱も、自分の胸を埋めていく想いも、言葉に言い表せないほどに愛おしく心地良い。
「あの、さ……」
僕もが好きだよ、と口にするよりも先に僕はの赤い頬に口唇を落とした。微かにしか触れなかった口唇がとても熱かったのは、彼女のせいなのか自分のせいなのか何も分からない。ただ、この胸に抱えきれないほどに溢れ返る気持ちだけが確かなことだと強く感じた。