揺れて、揺れて、揺れて
今の世の中、本、CD、ゲーム、服に至るまで何でもかんでもネットで手に入ってしまう時代で、外になんか出なくたって済む。それでもうちのママは二言目には「外で遊んできなさい」だ。私ももう16歳で、外で遊ぶにしてもブランコや滑り台で遊ぶような年齢じゃない。
ママの口うるささから逃げるように家を出たが、雪解けが始まった道はぬかるんでいて歩きづらく、なにより外はまだ寒い。行くところもないし外でやることもないため、そのあたりを少しうろついてほとぼりが冷めたころに家に戻ろうかと考えていると、自分の足が無意識にダニエルの家に向かっていることに気が付いてハッとした。
私の家はダニエルの家から徒歩圏内にある。昔からクリスも含めた三人で仲良くしており、近所の人たちからは“仲良し三人組”だなんて呼ばれていたこともあった。いわゆる幼馴染の腐れ縁というやつだったが、高校生になりクラスが別れてから私はダニエルとはあまり会わなくなった。
そう、私“は”だ。クリスはダニエルのすぐ隣の家に住んでいることもあり今でも頻繁に遊ぶらしいし、夜遅くの会えない時間になると通話しながら一緒にゲームをすることもあると聞いた。
クリスばっかりずるい。そう思ったこともあったが仕方のないことなのかもしれない。だって私たちはもう16歳で、ダニエルは男子で私は女子で、そして私はダニエルのことを友達としてではなく一人の男の子として好きだったから。
無意識にダニエルの家に向かってしまっていたのは、ダニエルに会いたいという気持ちの表れなのだろう。そんなことは自分でもよくわかっている。でもいま何の理由もなく彼の家の玄関のドアを叩いて「こんにちは」なんて挨拶したら不自然だし、そんなこと出来るはずがない。きっとダニエルだって何しに来たんだろうと思うに決まっている。
このまままっすぐ歩いていけばダニエルの家の前を通ることになる。別に通過するだけなら良いじゃないかとも思うがなんだか気持ちが落ち着かなくなり、私は来た道を引き返して別の道を行こうと決意した。
しかし、私はダニエルの家の前に見慣れない車が停まっていることに気が付き足を止めた。シルバーのセダンはこの辺りではあまり見ない小ぶりで都会的なデザインで、このビーバークリークという田舎町ではひどく浮いて見える。
ダニエルのおじいちゃんの車でもないだろうし、誰かお客さんでも来ているのだろうかと思いなんとなく見ていると、家から二人の人間が姿を現わした。一人は私がよく知るダニエルで、もう一人は見たことがない大人の女性。
女性は車の真横まで歩くと振り返り、後ろを着いて歩いてきたダニエルにハグをした。年上に見えた女性だったが身長はダニエルのほうが高く、少し背伸びをしながら勢いよく抱き着いており、ダニエルは嬉しそうに笑いながらもよろめいている。
真っ先にあの女性は誰だろうという疑問で頭が満たされた。女性は黒髪でアジア系の顔立ちはこの辺りでは見かけない垢抜けた美しさがあり、女子が憧れる女性の典型的な姿という感じに思えた。
ダニエルにあんな知り合いが居たなんて知らなかった。そう思うのと同時になんだか胸がざわつく。友達とも恋人とも言うには年齢が離れすぎているようにも思えるし、車に乗り込もうとする直前の女性とハグをし、恐らくは別れの挨拶を交わしているのだろうと思われるダニエルの顔はとても穏やかで優しくて、ずっと一緒に居たというのに初めて見る表情に思えた。
私の前では決して見せなかった顔を、私の見知らぬ女性の前で見せている。その事実に胸が苦しくなり呼吸が浅くなる。気が付くと女性は車に乗り込んでその場から走り去ったようだった。道の向こう側に走っていく車に手を振るダニエルを見ながら私はハッと息を飲む。
何をしているんだろう。さっさとこの道を引き返して家に戻ろう。そう思いながら踵を返し、雪解け水で濡れ切ってぬかるんだ道を一歩進んだ。その時だった。
「?」
背後からかけられた声と、私が踏んだ泥が潰れる音が重なる。思わずその場に立ち止まるも、振り返ることも返事をすることすらも出来ない。そのまま固まっていると背後から聞こえる足音がどんどん大きくなり、真横からダニエルが私の顔を覗き込んだ。
「やっぱりだ。いつからそこに居たの?声かけてくれれば良かったのに」
無邪気に笑いながらそう言うダニエルに少しカチンとくる。声をかけられるならとっくにそうしてたよ、と思いながら私はフンと鼻を鳴らした。
「見慣れない綺麗な女の人とハグなんかしてるところに、声かけられるわけないでしょ」
なんとなく腕を組みながら目をそらす。これは私にとっては精一杯の嫌味であったけれど、ダニエルには通用しなかったらしく、彼は小さく笑い声を漏らしながら「そうだね」と呟いた。
その反応にまた胸の奥がざわついてくる。例えば私の嫌味に対して「何言ってるんだよ」と照れて見せたり「今の人はそんなんじゃない」と否定したりすることを心のどこかで期待していた自分がひどく愚かに思え、穴があったら入りたい気分になった。
恥ずかしさ、情けなさ、惨めさがぐちゃぐちゃに混ざり合った感情に支配され、こんな姿をダニエルに見られたくないと、さっさと自分の家に戻りたいと、そう強く思った私はその場から去ろうと何も言わずに歩き出した。
しかし、私の腕を何かが掴み動きを止められる。それはダニエルの手で、歩き出した私を引き留めるように掴み、自分のほうへ軽く引き寄せた。
「は、今の人が誰かって聞かないの?」
何を言われたのか分からずに思わず眉間に皺を寄せたが、何の言葉も言い返せない。状況が理解できずにただダニエルを見つめ続ける私の表情は険しいものだっただろう。第三者から見れば私がダニエルを睨みつけているように見えたかもしれない。
「あの人はライラって言って、僕の初恋の人なんだ」
別に聞いてないんだけど、と思いつつも“初恋”という単語に心臓を強く鷲掴みにされたような気分になる。初恋というのは叶わないものだとは良く言うが、誰しもの心に残る大切な物だと私は思っている。何故なら私の初恋はダニエルで、16歳になった今でも私はダニエルに恋をしている。
先ほどのライラという女性にダニエルが恋をしたのは何歳の時だったのだろう。女性が乗る車も女性自身もとても都会的に見えたので、もしかしたらダニエルが昔住んでいたと言っていたシアトルで交流があった人なのかもしれない。もし、もしもその初恋の気持ちが“今でも続いている”としたら?
心臓がどんどんと早く鳴り、ざわつく胸の奥がジクジクと痛み出す。動揺を顔に出さないようこっそりと奥歯を噛みしめ耐えると、ダニエルは小さくため息をついてから困ったように笑って見せた。
「動揺しないんだね」
「え?」
ダニエルの言葉が予想外で、思わず間の抜けた声が口から漏れた。ダニエルには私が“そういう風に”見えたのならば、動揺を顔に出さないようにしていた努力が実ったということだ。しかし何故ダニエルがそんな風に指摘するのかがわからない。それだとまるで私に“動揺して欲しかった”みたいな言い方じゃないか。
お互いに何も言わず、ただ相手を見つめた。私より少し背の高いダニエルは軽く腰を折りこちらに顔を近づけると、聞こえるか聞こえないかくらいのとても小さな声で囁いた。
「僕だったら動揺しちゃうけど。の初恋の人がいま目の前に現れたら」
言葉の意味を理解するよりも早く、顔が熱くなってくるのが分かる。抑えようとしてもそれは叶わずただ赤くなっているであろう顔のままダニエルを見た。彼はただ穏やかに微笑んでいて、先ほどの言葉が本気なのか私をからかっているのかが分からない。
なんだか悔しくてたまらなかった。心を揺さぶられて、顔を赤くして、何と答えたら言いか分からずに黙っている自分が恥ずかしくて、ダニエルはいつも通りなのに自分だけがそうなってしまっているのが悔しくて、下口唇を噛みしめる。
「私の初恋の人なら、いま、目の前に居るよ」
無意識というより、言ってしまえという諦めに似た勢いのような気持ちに近かったかもしれない。気が付けば私はその言葉を口にしていて、ただ真っすぐにダニエルの目を見つめる。私がダニエルの言葉で心を揺り動かされたように、彼の心を揺り動かしたかった。私の言葉で動揺してしまえば良いと思った。
「私の初恋は、ダニエルだから」
そう口にし切った瞬間、目の前に影が落ち視界が何かに遮られる。私の頬の辺りが何かにぶつかったその瞬間、ダニエルにハグをされていることに気が付いた。
言葉にならない声が口から漏れ、思わず体を固める。ダニエルが何を思っていきなりハグをしてきたかということよりも、いま私たちが居るのはダニエルの家の目の前で何より道の真ん中だ。いくら人も車もあまり通らない田舎とは言え、誰かに見られたらたまったものではない。聞こえてくるダニエルの心音がひどく早くて、微かに香る男の子のにおいに頭がくらくらとしてくる。
「ちょっとダニエル!は、離してよ!」
なんとか名前を呼び、腕の中で身じろぎをしてダニエルの胸に手を当てると、距離を取るために力を込めて押した。しかしそこは男子と女子の差であるのかびくともしない。
「」
耳元で名を呼ばれ、ダニエルの腕がさらに締まり私を強く抱きしめた。このままだと顔から火が出るか口から心臓が飛び出てしまうと思い、ただ何かを耐えるように奥歯を強く噛みしめ目をギュッとつぶる。
「その初恋、現在進行形だって言ってよ。そしたら……離すから」
このままだと体も心臓も私の気持ちも抱き締め潰されて死ぬ。そう思った私は声を出して返事をしようと思ったがうまく言葉にならなかったため、ダニエルの腕の中で必死に何度も何度も頷いた。
本当は、私の初恋はダニエルで今でもダニエルが好きだとちゃんと言葉にして言いたい。しかし今は一刻も早くこのハグから解放されたいという思いでいっぱいだった。そうでなければ私の心臓がもたないし、その場に立ってすらいられなくなりそうだ。幼い頃からずっと好きだった男子に抱きしめられ、耳元で名を囁かれ、初恋が現在進行形だと言えと訴えられているんだから。
しかし、いつまで経ってもダニエルの腕の力は弱まりそうになかった。
「ちょ、ちょっとダニエル?離すって……」
「ごめん、やっぱり嫌だ。離さない」
「う、嘘つき!」
私の叫び声が雪解けの道にこだまする。それでもダニエルの腕は私を抱きしめることをやめなかった。
その後、やっと解放してくれたダニエルに誘われ、ライラという女性がお土産に持ってきたというコーヒーとクッキーを彼の家で頂いた。案の定、先ほどの光景をダニエルのおじいちゃんは見ていたようで、こっそりと私たちに「さっきみたいなのは誰にも見られないような所でやりなさい」と言われた。
やっぱり見られていたんだという恥ずかしさで今までにないくらい顔が熱くなり、「はい、すみません」と返事をしながら俯く。横目でダニエルの顔を見ると何故か嬉しそうに微笑んでいて、その表情に腹が立った私はダニエルのぶんのクッキーも全部食べてやった。何か文句を言っていたようだけど耳をふさぎ聞こえないふりをする。
「そっちがその気なら良いよ。後悔しても知らないからね」
ダニエルは鼻を鳴らしながら吐き捨て、私を自室に連れ込むとまるでクッキーの仕返しだとでも言わんばかりにもう一度私を抱きしめた。今度は私も抱きしめ返して、先ほどちゃんと言えなかった「ダニエルへの初恋は現在進行形」だという言葉を口にするのは、また別のお話。