孤狼
僕にとって愛とはなんだったのだろうか。例えばショーンがずっとそばにいて僕を守ってくれたのは愛だったんだろう。お父さんが僕たち兄弟を大切にしてくれていたのも愛だったんだろう。お母さんが何の迷いもなく僕たち兄弟を助けてくれたのも愛だったんだろう。おばあちゃんやおじいちゃん、クリスやライラが僕に向けていたものも、あるいは愛だったのだろう。気付かないうちに僕は沢山の愛を受けていた。それに応えられていた自信などこれっぽっちもないし、今では愛などなんの役にも立たない必要ない物だと思っている。それは国境を越えたあの日、たった独りになった瞬間から僕の中で変わらないもののうちの一つ。どこにでもあるようなラブソングや映画は綺麗事ばかりで反吐が出るほどに大嫌いだった。
メキシコでたった独りになってから数年の月日が経った頃、都市部にルチャリブレの試合を見に行った。そこでは街全体がお祭りのような雰囲気で、食べ物のお店が沢山並んでいたり、移動型の遊園地などもあった。観光客らしき人間から財布を盗んでいたため、お金にはしばらく困らない。飽きるまで遊んでいこうと思っていた。
ルチャリブレを見終わり会場を出た時に、見知らぬ人に声を掛けられた。その人物は女の子だった。年齢は僕と同じか少し年上くらいに見えた。服装や髪型はそこまで派手ではないし、逆に地味でもなかった。特にこれといった特徴もない何処にでもいるような女の子に見え、表情はニコニコとしていてとても感じが良かった。人との関りを避けたかった僕は彼女の声掛けに無視を決め込んだ。しかし彼女はめげることなく僕に話し掛けた。内心、迷惑だと思った。僕は独りになりたかった。国境を越えたあの日から独りになろうと決めていた。友達も、家族も、何もかもいらない。僕は永遠に独りなのだと自分に言い聞かせていた。
彼女は自身を「」と名乗った。何の反応もせず、何の言葉も発しない僕に、は急に自己紹介をしてきたのだ。別に訊いてもいないし興味もない。その後もは僕の後を着いてきて離れなかった。彼女の姿になんとなくマッシュルームのことを思い出し、嬉しいような、淋しいような気分になった。は僕に飲み物を奢ってくれた。それにはアルコールが入っていたようで、僕は生まれて初めてお酒を飲んだ。味はあまり覚えていない。しかしその時のの様子は今でもはっきりと覚えている。とても楽しそうだった。後に彼女から聞いた話だが、年齢の近い友達が出来た!と嬉しくてたまらなかったらしい。
プエルトロボスに戻ってからもは頻繁に僕に会いに来た。しょっちゅう僕の後を着いて回ったし、僕の住処で寝泊まりすることも多くなった。それは半ば一緒に暮らしているような、まるで家族のような、そんな幻想を僕に抱かせた。の勧めで髪を染めたり、タトゥーを入れたりもした。どんどんと変わっていく見た目に反して、僕の中にある想いは変わらずにそこにあった。
「僕に関わると死ぬよ」
いつだったか、にそう警告したことがある。
目の前で死んだお父さん。脚を怪我したおじいちゃん。車に轢かれたクリス。ショットガンで撃たれたフィン。吹き飛ばされたキャシディ。まるで人形のように崩れ落ちたリスベス。宙を舞う沢山の警察官。そして、誰よりもそばにいて僕を守り続けてくれたショーン。誰も彼もが僕のせいでひどい目にあった。僕に関わった人はみんなひどい目にあった。きっともそうなのだという確信があった。だからこそ僕は独りで居ることを選んだんだ。この警告でを突き放せると思った。が僕から離れてくれることを望んでいた。しかし、そうはならなかった。
「じゃあいつ死んでも悔いがないようにしておく。だから、ダニエルの友達でいさせてよ」
はそう言って僕の手を握った。その手を握り返すことは出来なかった。彼女の表情は穏やかで、とても綺麗だった。
それからしばらく経った後、運命の日はやってきた。いつものように粗末なベッドで横になり眠っていると、物音で目が覚めた。何だろうと思い体を起こした瞬間には、周囲を見知らぬ男たちに取り囲まれていた。その集団は各々が銃を持っていたり、鉄パイプのような物やナイフなどを手にしていた。
「テメェがダニエル・ディアスか」
集団の内の一人。屈強そうな肉体にびっしりとタトゥーが刻まれているリーダーのような男が名を呼んだ。返事もせずに黙っていると、男が僕に銃を向けて来た。暗闇のなかで銃口が鈍く光る。この男たちの目的は僕が持っている金か、もしくは僕を仲間に引き入れようと考えているか、そのどちらかだろうと思った。つまり僕を良いように扱いたいということなのだろう。
面倒くさい。心の中でそう呟いてから目の前の空間に強く集中し、“力”を使って集団の内の数人をまとめて吹き飛ばした。部屋はそこまで広くなかったため、すぐに壁にぶつかり動かなくなった。最後に銃を持っていた男の腕を折り、固く、重そうな体を宙に浮かせた。男が何かしらの命乞いをしていたように聞こえたが、僕は聞こえないふりをして、その体を床に叩きつけた。男たちは一瞬のうちに誰一人として動かなくなった。生きているか死んでいるかも分からなかった。
床に転がる“それら”を見ながら、もうここには住めないかもしれない、と考えていたその時に、開けっ放しになっていたドアの向こう側に人が転がっているのが見えた。ゆっくりと近付くと、暗闇で見えにくかった姿がはっきりとしてくる。だった。弱く目を開いたまま仰向けに倒れていて、僕と目が合うことはなかった。死んでいたからだ。よく見ると腹部の辺りが血に染まっており、周囲には血だまりがいくつもあった。恐らく男たちが僕に奇襲をかけるよりも前に口封じのため刺され、殺されたのだろう。悲鳴を上げることもなく静かに。
「」
当然ながらその名を呼んでも返事はなかった。顔を近付け彼女の手を握った。肌はまだほんのりと温かかったが、それが確実に失われていくのが分かった。
「……だから、言っただろ」
『僕に関わると死ぬよ』と、に警告した時のことを思い出した。僕は本当のことを何一つ言えていなかった。ここに来るまでに沢山の人を殺したこと。兄すらも自分のせいで亡くしてしまったこと。が傍に居てくれたことが本心では嬉しいと感じていたこと。『ダニエルの友達でいさせて』と言われた時に今までにない喜びを感じていたこと。全て、何もかも、本当のことはに伝えることが出来なかった。
あの日は、『じゃあいつ死んでも悔いがないようにしておく』と口にしていた。彼女に『悔い』はなかっただろうかと考えた。握りしめたままのの手はどんどんと冷たく、固くなっていくのが分かった。ただ僕はその手を離すことが出来なかった。いまさら気が付く。僕はに恋をしていた。彼女が好きだった。『友達』ではなく、それを超えた存在に、僕はなりたかった。体温が蘇ることも握り返されることもないと分かっていたその手を握り続けた。ただ、彼女に触れていたかった。
僕にとって愛とはなんだったのだろうか。ショーンや、お父さんや、お母さんが僕に注いでくれていた愛に応えられていた自信などこれっぽっちもない。僕はがくれていた愛にも応えられなかった。彼女が死んだたった今、それに気が付き手を握ってももう遅い。愛などなんの役にも立たない。愛など新たな悲しみを呼ぶだけだ。今までもこれからも僕は誰とも関わらずに生きて行く。僕は、“一匹狼”なのだから。