レム

 今でも鮮明によみがえる生臭い鉄。そう、血の匂いだ。それと同時に隣から何の返答もないことにやっと気が付く。あの頃の僕は自分でも嫌悪するほどに未熟な子供だった。反対を押し切って強行突破なんてすれば僕たちの身に危険が及ぶことぐらい少し考えれば分かることだったのに。僕はひどく自分勝手で、ひどく愚かだった。

 僕の目の前でショーンは死んだ。見たことがないくらいの量の赤が僕の視界を蝕んでいく。ショーン、ショーン。何度名を呼んでも返事は返ってこない。触れた手のひらから伝わる温もりが次第になくなっていくのが分かり、もう一度その名を呼ぼうと息を吸い込んだその時、そこでいつも、この悪夢から覚める。

 見開いた目に飛び込んできたのは自室のひび割れた汚い天井だ。まるで呼吸を止めていたかのように苦しく、胸と肩を上下させながら必死に酸素を求めた。ああ、まただ。頭の中で独り言ちる。大切な兄を失った瞬間の夢を見てしまうのは最早日常茶飯事だった。それなのに何度見ても慣れることはなく、文字通りひどい悪夢だと感じてしまう。

 何とか息を整えてからベッドから起き上がるとじんわりと汗をかいていた。それを不快に思いハァと溜息をついたその時、自分のすぐ隣に人が居ることに気が付く。女だった。彼女の名は。それ以外の情報はたいして知りもしない。気まぐれに僕の所に来てはこうして勝手にベッドに入ってくる。は起き上がった僕に気が付いたのか何度か身じろぎをした後に薄っすらと目を開き、眉間に深い皺を寄せた。

「……なに、また起きたの?」

 は顔にかかる髪を手で払いのけながら僕と同じように起き上がる。何でお前がここに居るんだよ。そう問いかけようとしてやめた。どうせ聞いたところではっきりと答えてはくれず、はぐらかされてしまうことを分かっていたからだ。が何を考えているのか僕には分からない。こうして近くへ寄って来ては同じベッドに入りすぐ隣で眠る。もしかしたら僕のことが好きなのかもしれない。そう思ったこともあったが、ただ隣で一緒に眠るだけでそれ以上のことはしたことがないし、勿論好きだと言われたことだってなかった。

 彼女が言った『“また”起きた』という言葉に今更突っかかる気力もない。僕は眠りが浅い。それは6年前に兄であるショーンを失ってからずっとだ。まぶたを下ろし、目の前が暗闇に閉ざされ、意識を手放そうとしたその瞬間にあの時の光景が浮かんで眠れなくなる。もし運よく眠りに落ちたとしても恐ろしい悪夢に叩き起こされる。そんな毎日だった。

 は僕の眠りが浅くなってしまった原因こそ知らないものの、僕がこの睡眠障害のような症状を持っていることを理解していた。だからこそこうして隣で一緒に眠ってくれているのかもしれないとも思ったが、そんなことは余計なお世話だ。弱みを見せて他人に縋るなんてまっぴら御免だ。しかし、彼女の顔を見たら、例の悪夢が及ぼした不快感がほんの少しだけ和らぐような感覚がして、それはすぐに自己嫌悪に変わる。どうして僕がこんな奴にそんな感情を覚えなければならないのか。

 チッと小さく舌打ちをして額の汗を拭おうとした時、それに気が付いたのかがこちらに手を伸ばして来た。

「触るな」

 その手を振り払い、軽く睨みつける。こんな威嚇も彼女には無意味だということも分かっていた。は眉間の皺をさらに深くし、目を細めた。それは僕のことを睨み返している表情に見える。お互いに目を反らさず鋭い目線を送り続けるこの状況はまるで野良猫の喧嘩のようだとどこか他人事のように思う。“目をそらしたほうが負け”。何故かそんな考えが頭の中に浮かんだ。

 すると、は先ほど僕が振り払った手をもう一度こちらに伸ばして来た。しかし今度は顔ではなく腰の辺りだ。はまるでレスリングのタックルかのように腹に飛び込んできて、僕たちは衝撃でベッドに倒れ込む。軋んだ音と共に埃が舞い、僕はケホと一度だけ咳をした。その間もは僕の胴体にしがみ付いたままだった。

「ちょっと、何。放せって」

「良いから。こうしてればそのうち眠れるって。目、閉じなよ」

 を何とかして引き剥がそうと身じろぎしてみるものの、回された腕はがっちりと組まれておりびくともしない。僕は男で相手は女だ。本気を出せばどうということはないし、そもそも“僕の力”を使えばこんなのは簡単に引きはがせる。しかしどうしてかそれをする気になれなかった。まるでコアラかのように僕にしがみ付くの体温が妙に心地良かったせいなのかもしれない。人間というものは同じ人間の体温が一番快適に感じる生き物なのだと何処かで見たことがあるが、きっとそういうことなんだろう。息苦しさで眠れなかった僕のまぶたがなんとなく重くなってきたと感じるのは、きっとこの体温が快適だからだ。それ以上の意味なんかない。ないはずだ。

 その時、鼻の辺りに覚えのある匂いがかすめた。煙草の匂いだ。僕は煙草が嫌いだった。原因は自分でも分かっている。喫煙者だった兄を想い出すからだ。独特な煙の匂いも、吸っている人が纏う残り香も嫌いで、煙草の箱や煙草そのものを見るだけでも不快感を覚える。意識して鼻で呼吸をしてみると、その匂いはから漂ってきていた。僕は彼女が喫煙している所を見たことがなかったため、少しだけ驚く。

「ねぇ、クサいんだけど。僕が煙草嫌いなのも知ってるでしょ」

 文句を言うと、僕の体にしがみ付いたままのは頭をぐりぐりと押し付けながら不機嫌そうに唸った。

「うるさいなぁ、もう、しょうがないでしょ。私が吸ってるんじゃないんだから許してよ……、いいから、早く、寝て……」

 語尾の辺りに力がなくなり、声も小さくなってくる。は僕を抱き枕のようにしたまま寝てしまった。つい先ほどまで起きて僕と会話をしていたというのに、眠りに落ちて行くスピードがあまりにも早く、呆気に取られる。

 『私が吸ってるんじゃないんだから許してよ』。はそう口走った。彼女が喫煙者ではないことを僕は知っているため、この言葉に嘘はないと思う。そうなると誰が吸っているのか。予想するに、日常的にの身近にいる誰かが煙草を吸っており、その煙の匂いが彼女の体についたのだろう。その“誰か”とは女だろうか、男だろうか。もし男ならどんな奴なのだろうか。匂いが体につくぐらいに親密な関係なのだろうか。恋人だろうか。もしそうなら何故はこうして僕の傍に来るのだろうか。

 そこまで考えた所でハッと息を飲んだ。何を考えていたのだろう。それはまるで僕が、の身近にいる“喫煙者”に嫉妬でもしているかのような思考だった。思わず自分の髪をグシャグシャとかき混ぜる。本当なら体を起こして頭を振り、余計な考えを振り払ってしまいたい所だったが、未だにがっしりとしがみ付かれているため、不可能だった。

「ほんと……、キモい」

 思わず独り言ちる。それはあの日、僕たち以外誰も居ない山小屋で過ごした最後の夜。サイコロゲームをしてからもう眠ろうかという時、煙草を吸いに外へ行こうとしているショーンにかけた言葉と同じものだった。兄を想い出す煙草の匂いも、理解出来ないこの感情も、なんとなく眠りに落ちそうになっている自分も、何もかもが不快だ。そう、不快なはずなのに、それなのに、同時に言いようのないくらいの安心感を覚えてしまう。自分の体に纏わりつく温かく柔らかい“それ”から一定のリズムで響き聴こえてくる鼓動と呼吸音。それに合わせるように息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、と繰り返しているうちに、僕はいつの間にか眠りに落ちていた。夢は何も見なかった。