天使なんかじゃない

“本当のあなたを、私は知ってるよ”

 2017年4月11日。当時10歳の誕生日を迎えた僕にそんな内容の手紙が届いたことは今でもはっきりと覚えている。差出人の名は。彼女は親に連れられてリスベスの教会に通っている信者だった。最も自身は信者などではなく、ただ親の言うことに従っていただけに過ぎなかったようだ。リスベスの説教も、僕の“奇跡の御業”とやらも、彼女は全く信じていなかったらしい。僕と年齢の変わらない子供だった彼女は現実の世界と向き合い続けている大人だった。逃避し、無意味な物事に縋り続ける周りの大人たちよりも、ずっと。

 は僕の“力”が奇跡でも何でもないということに気付いていた。似たような力を持つ人間が身近に居たのか、既に見たことがあったのか、それとも彼女自身が力を持っていたのか、詳しくは訊いていないため分からない。は僕の力の秘密を他の誰かに話そうとはしなかったため、僕も僕で彼女を避けるようなことはしなかった。リスベスと共に暮らしている部屋の裏手にある練習場にをこっそりと呼び出して一緒に遊んだりもした。彼女は僕を怖がることも、崇めることも、遠ざけることも何もかもをしなかった。ただ僕の傍で僕のことをずっと見つめ続けていた。

 ショーンとお母さんが僕を助けにきたその日、教会は焼けて、信者たちがどうなったのかは分からない。少なくともジェイクとサラが無事だということは知っているが、は一体どうなってしまったのだろう。せめて彼女にだけは最後に『さよなら』を言いたかったと今でも悔やんでいる。

 時は流れ2023年4月11日。ビーバークリークで暮らす僕は16歳の誕生日を迎えた。今日はおじいちゃん、おばあちゃん、クリスたちみんなが僕の誕生日パーティを開いてくれることになっている。みんなが集まるのは夜からだが、既に風船や色とりどりの紙で家じゅうが飾り付けされ、楽しさと幸せで満ちている。そんな部屋の中を見渡すと、所々で十字架が目につく。僕のおばあちゃんは熱心なカトリックのため、家にそのような物があることは一向に構わないし、小さな頃から見慣れている。僕はその十字架を見るたびにのことを思い出していた。彼女は元気だろうか。今は何処で暮らしているのだろうか。僕は今とても幸せだけれど、も同じように幸せを感じているだろうか。そんなことをずっと考える。あの日から6年。当然ながらも僕と同じくらいの年齢になっているだろう。

 あの教会で僕はリスベスと出会い、力を悪用された。誰もが僕を『天使』と呼び、手を合わせたり頭を低くしたりして、時には笑い、時には泣いていた。ただだけは僕を天使だと呼ぶことをしなかった。僕が天使などではないと、特殊な力を持っただけのごく普通の子供だと分かっていたからだ。僕はの前でだけは本当の自分で居られるような気がしていたし、本当の自分で居ることを許されるような気がしていた。

 様々な考えが頭の中を行き来し、心が乱されたような気分になった。頭を軽く振り玄関に向かう。少しだけ外の空気を吸って気分転換でもしよう。そう思いながら壁に寄りかかり靴を履く。綺麗好きのおばあちゃんは家の中を土足で歩くことを絶対に許してくれはしない。これは僕が幼い頃から決まっているルールだった。

 外はあまり良い天気とは言えなかった。家の前の道に出て、遠くに見える薄暗い雲を見ながら歩き出す。朝晩はまだ冷えるものの、昼間の気温は丁度よく過ごしやすい。積もっていた雪はとっくの昔に溶けて無くなっており、あちこちには美しい緑色が見え隠れしている。このままあっという間に春が終わり、夏が来るのだろう。今年の夏もお母さんやジョアンの居るアウェイへ行こうか。クリスとどんなことをして遊ぼうか。そんなことを考えながらふと、は今年、どんな夏を過ごすのだろうか、と考える。またのことを思い出してしまった自分に気付き、ふう、と小さく溜息をついた。

 気が付くと、真っすぐ続く道の向こう側に人影が見えた。その人物はゆっくりとこちらに近付いて来ており、僕もゆっくりと歩みを進めているため必然的に僕たちの距離は縮まっていく。はじめは遠くに見えていた人影も近くで見ることにより女性であること、大きな荷物を背負ったバックパッカーであることが分かってくる。なんとなく女性の顔を見た。髪の色、顔つき、纏う雰囲気に見覚えがあった。今まで6年間ずっと、頭の中で何度も何度も思い返した姿によく似ていた。

「……?」

 無意識にその名が口からこぼれる。女性は僕の顔をまじまじと見た後、口角を上げ歯を見せて笑うと、ただ一言「久しぶり」とだけ口にした。否定も肯定もされずにそれだけを言われ、女性が本当にであるのか分からず混乱した僕は何の返答も出来ない。否定しなかったということは肯定したのと同じことなのかもしれない。何故、どうして、が今ここに居るのかが理解出来ない。もしかしたら誕生日というこの日に神様が奇跡を起こしてくれたのかもしれないなどと馬鹿げたことを考えてしまう。奇跡なんかないということは僕自身が一番良く分かっているはずなのに。

 何も言わないままその場に立ち尽くすだけの僕の目の前に、女性は一枚の紙切れを差し出して見せた。それはどうやら新聞の切り抜きのようで、見出しには『湖の惨劇を免れた 奇跡のバス』と大きく書かれている。今から数年前、地滑りにより道路が崩れ湖に落ちそうになっていたバスをギリギリの所で僕が力を使って救い出した事故の記事だった。しかしこれは今から何年も前の話だ。地元の新聞に小さく載った程度のこれを頼りに、何年も僕を探していたのだろうか。そんなまさか。僕は目線を上げ、もう一度女性の顔を見る。改めて見た彼女の笑顔はあの日、練習場で僕を見つめ続けていた時と同じ優しい目をしていた。だ。その想いが僕の中で確信に変わる。

「ずっと探してたんだよ。私の“天使”をさ」

 はどこか嬉しそうな表情でそう口にした。僕はと出会ってからただの一度も、彼女から『天使』と呼ばれたことはなかった。だけは僕を天使だと呼ぶことはしなかった。僕が天使などではないと、特殊な力を持っただけのごく普通の子供だと、分かっていたからだ。そんな彼女が僕を『天使』と呼んだ。今までは嫌悪しか感じなかったその呼び名があまりにも心地良く、あたたかく、体に沁み込むような感覚に陥る。

「僕が天使なんかじゃないって、知ってるくせに」

 皮肉めいた言葉を口にする。胸の奥が狭くなり苦しく、目の前の視界はぼやけ涙がこぼれそうなのに、嬉しくてたまらなかった。彼女にもう一度会えたことも、彼女に生まれて初めて『天使』だと呼ばれたことも、ただただ嬉しくてたまらなかった。

 は僕の肩を掴んで自分の方へ引き寄せると、そのまま背中に腕を回して僕を抱き締めた。持っていた新聞の切り抜き記事が地面に落ちて行くのが視界の端に映り込む。『湖の惨劇を免れた 奇跡のバス』という見出しがもう一度僅かに見えた。そんなものありはしない。教会での出来事も、バスを救った出来事も、全ては僕の力が起こしたことだ。そう、僕は信じない、僕は天使なんかじゃない。それでも今は目の前にが居て、6年という月日を経てもう一度会えた。16歳の誕生日、生まれて初めて『奇跡』というものを心から信じられ、『天使』という呼び名が好きになれるような、そんな気がした。