シャンディガフ
その夜のブラックランタンにはセンスの悪いやかましい曲が鳴り響いていた。誰がリクエストしたのかは分からないし、どうでも良い。俺はカウンターに居るジェドに向かって挨拶代わりに軽く片手を上げると、店の奥に進む。耳障りだった音楽が薄れるほどに奥まった静かなボックス席には座っていた。向かいの椅子には誰も居らず、一人で広々としたテーブルを使っているのかと思いきや、そこには一本の瓶ビールだけが寂し気に置かれているのみだった。
は俺と目を合わせるなり、軽く両眉を上げて自分の向かいの椅子を顎でさす。“突っ立ってないで座れば?”とでも言いたげな顔に見えた。俺も彼女と同じように何も言わず、肩をすくめながらも腰を下ろした。店内を見渡すと客の数はかなり少ないように思える。遅い時間ではあるが今日は平日のため仕方のないことなのだろう。
向かいにいるを見ると目が合った。つい先日、本人から聞いた話ではあるが、彼女は明日、この街ヘイブン・スプリングスを出て行く。行先はシアトルだかポートランドだか、とりあえずは西海岸であるということだけしか決めていないらしい。そんな無計画で成り行き任せな生き方がいかにもらしいなと感じていた。
にとって今夜がヘイブン・スプリングスで過ごす最後の夜ということになる。そんな日であるのに何故彼女が一人で淋しく酒を飲んでいるのかというと、誰も寄せ付けない一匹狼だからだ。のことは小さな頃から知っているが、家族も友人も居らずいつも一人だった。公園のベンチを壊しただの物を盗んだだの、様々なことで俺たち警察の手を焼かせ、署内での顔を知らない者は居ないくらいだった。誰も寄せ付けない雰囲気の彼女の唯一の理解者が俺だった、なんて言ったら自惚れが過ぎるだろうか。
「あんなちっちゃかったクソガキのが、酒を飲む年齢になるなんてなぁ……」
テーブルの上に置かれたビール瓶を見ていたら感慨深くなってしまい、思わず呟く。するとはこちらを睨むように見た後「ちっちゃくないし、クソガキでもない」と独り言のように反論した。俺の言い方が気に障ったのかはビール瓶を乱暴に手に取り、煽る。その眉間に深い皺が寄った。まだビールの味に慣れておらず、苦味を強く感じるのだろう。
「ちょっと待ってろ」
俺はの顔の前に軽く手のひらを向け一気飲みを静止させる。そのまま席を立ち、カウンターに居るジェドに良く冷えたグラスと一本のジンジャーエールをリクエストした。それらを手に持ち席に戻ると、は首を傾げながら不思議な物を見るような表情で俺を見ていた。手で持つのがつらくなるほどに良く冷やされたグラスをテーブルの中央に置く。そこへジンジャーエールを半分、そしてが飲んでいたビールを半分、それぞれ注ぐ。淡く美しい黄色の液体が混ざり合い、次から次へと白い泡が浮かんできた。
「ほら、飲んでみな」
そう言ってグラスをの方へ押し出した。ビールとジンジャーエールを混ぜれば酒独特の苦味が和らぎ、のような子供舌でも少しは飲みやすくなるだろうと考えての行動だった。は恐らく初めて見るのであろう“それ”を怪訝そうな目で見てから、ゆっくりとグラスを手に持ち口を付ける。一口だけ飲むとまるで、“大人の世界”という未知との遭遇を果たした子供かのように目を丸くして、口をすぼめる。その表情がひどく可愛らしく思えた。
「んー……、まぁまぁ、……かな」
は曖昧な言葉を口にする。そしてすぐに二口目、三口目と酒を飲む。「まぁまぁ」と言いつつもどうやら気に入ったらしいその様子に思わず笑みがこぼれた。酒のせいなのかは次第に饒舌になり、思い出話に花が咲いた。初めて補導されたのはどの場所だっただの、初めての万引きはあの商品だっただの、内容はろくでもないものばかりだった。
ジンジャーエールとビールの瓶がそれぞれ空になる頃には良い時間になっており、の頬は薄っすらと赤く染まっていた。思い出話は底をつきそうになかったが、酒は底をついてしまった。そろそろ帰ると言うを俺はパトカーで家まで送り届けることにした。いくらヘイブン・スプリングスという平和な街とは言え女が夜遅くに一人歩きするのは危険だし、ほろ酔い状態ならばなおさらだ。
ブラックランタンからの家までそこまでの距離はないため、パトカーではあっという間の時間だった。は食料品を取り扱っている店舗の二階を間借りしていた。店舗には外階段が設置されており、二階の居住スペースへは一階を経由せずとも入ることが出来るようになっている。しかしは明日にはこの街を出て行く。きっと部屋は綺麗に整理されて何もなくなっているのだろう。
「パイクは明日、見送りに来てくれんの?」
は階段の手前でこちらに振り向いてから問う。見送りに行きたい気持ちは山々だが、明日も今日と同じようにみっちりと仕事のスケジュールが詰まっている。周囲の人間に相談すれば街の出入り口にあるバス停に顔を出すくらいなら出来るかもしれない。しかし俺はそれをしたくはなかった。最後の最後にの顔を見てしまったら、きっと寂しくて、淋しくて、彼女を引き留めてしまうような気がしていたからだ。
目を伏せ何も返答出来ずに居ると、はフ、と小さく笑ってから「まぁいいや」と呟く。何か言わなければと思い顔を上げると、目の前にの穏やかな笑顔があった。
「私ね、パイクのことずっと好きだった。初恋だったと思う。……たぶんね」
目を反らすことなく、真っすぐに俺だけを見つめては言った。彼女の頬が未だ薄っすらと赤く染まって見えたのは酒のせいだ、酒を飲める年齢になったばかりで、酒に慣れていないせいなのだろうと自分に言い聞かせた。相変わらずなにも言えないでいる俺には再び息を吐くようにして小さく笑う。
「パイクのことずっと忘れないよ。だからパイクもたまにで良いから、私のこと思い出してね」
は背伸びをすると、俺の肩に手を置いてそこをポンポンと軽く叩く。その行為にどんな意味や、どんな感情が込められているのかが俺には分からない。今までの出来事が走馬灯のように駆け巡り、ただ、を抱き締めたいと思った。しかしそれは出来なかった。
はこちらに背を向け、階段をのぼっていく。彼女はきっとここ、ヘイブン・スプリングスには戻らない。そんな強い決意を小さな背中から感じた。田舎町を出て、都会へ行って、知らない世界を知って、たくさんの人々と出会って、きっと俺の知らない男のものになる。それがひどく惜しいと感じてしまった。追いかけて、腕を取って引き留めて、抱き締めてしまいたかった。そんなことは出来ないと分かっているのに。
「じゃあね、パイク!おやすみ!」
いつの間にか一番上までのぼり切ったはこちらに向かって大きく手を振っていた。街灯の少ない薄暗い夜の街でも直視するのが難しくなるくらいの眩しい笑顔。今までに見たことがないくらいに綺麗だった。俺も同じように笑顔を浮かべ、手を振り返すと、は満足したように家へと入っていった。
誰も居ない夜の街には、どこかで鳴いているのであろう虫の声と、動物の声が微かに聞こえるのみだった。俺はパトカーに戻り、大きな音をたてないように気を付けながらドアを閉めた。ふと、先ほどまでが座っていた助手席を見る。微かに残るぬくもりが目に見えるようだった。はきっともう二度と、ここへ座ることはない。
「……飲み直すか」
車内に独り言が空しく響く。こんな時間だ。仕事を終えて酒を飲んでも文句を言われることもないだろう。今日だけはウイスキーやウォッカなどではなく、ビールとジンジャーエールが飲みたい。きっと俺はシャンディガフを口にするたびにのことを思い出すのだろう。「まぁまぁかな」なんて言って目を丸くしていた彼女の姿を、これからもずっと、永遠に。