手折れ

 薔薇の香りが嫌いだ。花が多く飾ってあるあの人の部屋を思い起こさせるからだ。あの人の部屋を思い出すと言うことは自然とあの人自身を思い出すということに繋がる。薔薇の香りも、薔薇の花も、ローズという名も、私は嫌いだ。思い出したくもない。それなのに一日に何度も彼女のことを考えてしまう。

 まだ営業時間になっていないゴルフショップの奥へ進み、薄いガラス戸をゆっくりと押し開ける。脆く見えるこれも恐らくは防弾仕様なのだろうとぼんやり考えた。部屋へ足を踏み入れるとすぐに粘度のあるような甘く重い香りが鼻をかすめる。薔薇の香りだ。無意識に頬が引きつり、目を細める。

 部屋の奥には大きな水槽があり、その前には長いオフィスデスクとひじ掛けのついた大きな椅子があった。あの人――ローズさんがいつも使っている机と椅子だ。そっと近づき、音を立てないようにゆっくりと椅子を引く。そこへ腰を下ろすと軽く椅子が揺れた。もうそろそろ買い替え時なのかもしれないと呑気にも考える。

 机の上に指を乗せ、そっと撫でる。彼女はいつもここへ脚を置き、ゴルフクラブを磨いている。その光景はまぶたの裏に焼き付いていて、いつだって離れることはない。うつ伏せるようにしながら顔を近付けると微かに薔薇の香りがしたが、恐らくは気のせいなのだろう。私はこの香りが嫌いだ。薔薇の花も薔薇の香りもローズという名すらも嫌いだ。それなのにこんなにも執着してしまうのは何故なのか。



 聞き慣れた声に名を呼ばれ、私は咄嗟にうつ伏せていた頭を上げた。声のした方向には私の頭の中を埋め尽くしている張本人が妖しい笑みを浮かべてこちらを見ている。その表情は正に『からかい甲斐のある楽しそうな玩具を見つけた』とでも言いたげだった。

「ローズさん……」

 小さな声で名を呟いてから、俯く。『いつからそこに居たんですか?』なんて質問をしようとして、やめた。ローズさんがいつからそこに居て、いつから私の奇行を眺めていたかなんて、そんなことどうでもいいし知りたくもない。

 靴の音が聞こえ、顔を上げて正面を見るとローズさんがこちらに近付いてくるのが見えた。私は椅子から立ち上がり、距離を取るように数歩後ずさる。勝手にローズさんの部屋に入り、勝手に椅子に座り机を使っていたことを彼女は怒りはしないだろう。それは分かっていた。しかし妙な気迫を感じた私は軽く身構えるように体に力を籠める。

 ローズさんは私の目の前まで来ると、腰を折って顔を近付けた。

「お前はなんでいつも俺が居ない時間に来る?せめて顔ぐらい見せたって罰は当たらないだろ」

 銀色の美しい髪が肩から滑り降りるのが見えた。ああクソ、と心の中で独り言ちる。長い髪も、黄色の瞳も、この香りも、全てが私を狂わせる。好きじゃないと何度も自分に言い聞かせても、心臓は早く鳴り、呼吸は浅くなるばかりだった。私はこんな人好きじゃない。そんなことは決まっているというのに、体が言うことを聞かない。

「あなたに……、ローズさんに、会いたくないんですよ、私は」

 低い声を意識して吐き捨てた。ローズさんは何も言い返しては来ず、部屋に沈黙が流れる。背後にある水槽に居る魚が泳ぐ水音が妙に耳についた。黙り込むローズさんを不思議に思い、眼球だけを動かして上目遣いで彼女を見る。その表情は先ほどと変わらずに妖しい微笑みを浮かべていた。

「へぇ……、そうかよ」

 ローズさんの腕がこちらに伸びて来て、手袋をつけたままのそれが私の頬を撫でる。手はそのまま耳の辺りまで移動すると、無造作に垂れ下がっていた私の髪を耳にかけた。

「つまりお前は、顔も見たくないくらい嫌いな俺の部屋にやってきて、同じ椅子に座って、机のニオイを嗅いでる変態女ってことか。良い趣味してるよ……、まったく」

 喉の奥になにかが詰まったかのように声が出なかった。呼吸すらも上手く出来ず、何かの警告かのように視界が黄色くなったような気がしたが、それはローズさんの黄色い瞳のせいだ。この美しい瞳から目が離せなくなり、そこへ自分の姿が映っているように思える。まるで首を絞められているような気分だった。

 何も言い返せない私を退屈に思ったのか、ローズさんは私の肩を掴み強く押すと、机の上に引き倒した。花瓶や写真立てが次から次へと床へ落ち、不穏な音を響かせる。

「俺に会いたくないって?笑わせる。いい加減素直になれよ、

 ローズさんは私の胸倉を掴み、机に強く押しつける。背中に当たる固い感触に酷い痛みを感じたが、抵抗する気にはなれなかった。ローズさんへ向かって両手を伸ばし、首に触れる。そのまま耳から頬へ触れ、輪郭をなぞるように顔を撫でた。口唇に視線が吸われ、ただ率直にキスがしたいと考える。

「私は、あなたが嫌いです。世界で一番嫌いです」

 浅い呼吸のまま、まるで囁くような小さな声で呟いた。銀色の髪に指を絡ませ、引き寄せるようにしながら口唇に噛みつく。触れ合ってすぐに重なっていた口唇を解いて顔を離そうとした時、自分の後頭部に手が差し込まれ、それを阻止された。押し付けただけの子供のようなキスが深く濃いものに変わる。ローズさんの片足が机の上に乗ったのが分かった。

「説得力ねぇんだよ、……ヘタクソ」

 口唇と口唇の隙間から声が聞こえた。手袋をつけたままの無機質な手が私に触れる。体温など感じない。そこから薔薇の香りが漂ってきて、いやらしく体にまとわりつくようだった。私は薔薇の香りも、薔薇の花も、ローズという名も、ローズという人も、嫌いで嫌いで、本当に心から、大嫌いだ。