※原作チャプター2『累』の設定
遠い夜明け
この世の中には禁足地と呼ばれる場所が存在するということを知ったのは、確か私が小学生の頃だったように思う。神仏に詳しい祖父は禁足地についての話をした後、すぐに体調を崩して亡くなってしまった。私は小学生ながらその話が祖父の最期の言葉、つまりは遺言のように思えてしまい、何年経っても忘れることが出来なかった。
時の流れはあっという間で、幼かった私もお酒を飲める年齢になった。その日は渋谷にて友人たち複数人と行きつけの居酒屋で飲み会をしており、いつもであればそこまでお酒を飲まない私だが、珍しく深く酔っていた。
外の空気を吸おうと店員に許可を取り、店を出たところまでは覚えている。冷たい夜風と共に視界に霧のようなものが立ちこめ、天気でも悪いのかな、と思い空を仰いだ瞬間、そこで私の記憶は途切れた。気が付けば私は草が生い茂る見知らぬ空き地に突っ立っていた。
ここはどこだろう、と率直に思う。周囲を見渡してもひたすらに草しかない。しかもその草は手入れをされているような美しい物では決してなく、好き勝手に生い茂った雑草たちがほとんどのようだった。空き地は金属の板のようなもので囲いがしてあり、無暗に入ってはいけない場所に思える。そもそもこんな所に入った記憶もないのに、私は何故ここに立っているのだろう。
祖父が言っていた『禁足地』という言葉を思い出しながら、なんとなく空き地の中央辺りに視線を送る。そこには見覚えのある人物がしゃがみこんでいた。
「伊月、くん……?」
声に出して名を呼んだが、彼には聞こえていないようだった。
伊月暁人くん。高校の時のクラスメイトで、ずっと片想いをしていた相手だった。卒業してしばらく経つが、まともに連絡を取っていないため彼が今何をしているのかは知らない。恐らくは私と同じ学生だろうなと予想する。
高校の卒業式の日、私は伊月くんに第二ボタンをせがんだ。そして彼は私にボタンをくれた。私はボタンをせがむという行為で勇気を使い果たしてしまい、伊月くんに自分の想いを伝えることが出来なかった。それを今の今までずっと後悔していて、その後悔を一生背負ったまま生きて行くのだなと思っていた。
昔のことを思い出しながら、ゆっくりと伊月くんに近付く。彼は未だに私のことには気付いていないようで、しゃがみ込んで自分の手のひらを見ながら何かを思い悩んでいるような様子だった。「あのマンションは北か」というようなことをぶつぶつと呟いている。
「伊月くん」
もう一度、名を呼んでみた。今度こそ私の存在に気が付いたようで、伏せていた顔を上げ私を見た。一瞬戸惑っているような困惑の表情を見せたが、それはすぐに目を見開いた驚きのものに変わる。
「……?」
伊月くんは私の名を呼び、おもむろに立ち上がった。私のことを覚えていてくれたことに安堵しながらその顔を見る。優しい目は高校の時から少しも変わっていない。
「ひ、久しぶり……。こんな所で何してるの?」
緊張から自身の声が上ずり、聞き苦しいものになってしまったことに嫌悪する。『こんな所で何をしている』という問いは当たり障りのないものだと思っていたが、予想に反して伊月くんの表情が曇った。それはあからさまな変化で、ただ単に不快感を示しただとか、気まずそうな顔をしただとか、そんなものではなかった。伊月くんは眉間に深い皺を寄せ、とてつもなく悲しそうな表情で私を見つめた。今すぐにでも涙を流してしまいそうな顔に思えた。
「ど、どうしたの?」
思わず問いかけると、それとほぼ同時に伊月くんの腕がこちらに伸びて来て、私の肩に軽く触れた。いや、正確に言えば“触れようとした”。“触れようとした”がそれは叶わず、伊月くんの手は私の肩をすり抜け、腕のラインをなぞるように下に落ちて行く。何が起きたのか分からなかった。
自分の体を見てみると、ほんの少し青みがかっているように思えた。そのことに気が付くと、なんとなく視界もゆらゆらと歪んで見えるような気がしてくる。まるで水の中にいるような感覚だった。
「なにこれ……」
無意識に呟いた。混乱する頭の隅にどこか冷静な自分が居て、ああ私はこの世のものではなくなってしまったんだなと気が付く。私がいま居るこの場所は恐らく渋谷の『禁足地』だ。そこに立ち入った者は神隠しや祟りに合うということは祖父から聞いていた。きっと私はその“祟り”とやらに飲まれてしまったのだろう。
伊月くんは私が置かれた状況を理解しているようだった。そういえば彼は何故ここに居るのだろう。そして私と同じように『禁足地』に足を踏み入れているのに何故無事なのだろう。色々と思う所があったが、そんなことは最早どうでも良かった。
一歩前に出て、伊月くんに手を伸ばす。彼の胸の辺りに指先が触れたかと思うと、すり抜けてしまった。ぬくもりや鼓動の響きなどを一切感じられないことが、肉体が消えたことを残酷なまでに自覚させる。
ああそうか、私は死んでしまったのか。やりたいこともまだたくさんあったな。食べたいものもたくさんあったな。家族や友達に伝えたいこともたくさんあったな。高校生の時に片想いをしていた大好きな彼に「好き」だと言えなかったな。様々な想いが頭のなかをぐるぐると回る。
「私、伊月くんのこと、好き」
言葉が自然と口からこぼれた。伊月くんはそこまで驚いていない様子で、ただ黙って私の顔を見る。その表情に悲しみの感情は混ざっていないように思えた。
「最期に好きだって言えて良かった。卒業式の日に告白しなかったこと、今までずっと後悔してたから」
心の奥底に沈殿していた思いを吐き出すと、とても清らかな気分だった。きっとこれは神様が最期に見せてくれた夢なのかもしれない。どうせ死ぬのだから最期に悔いを晴らしてから死になさい、と慈悲をかけてくれているのかもしれない。死ぬのは嫌だし消えるのは怖いが、とてもありがたかった。後悔という杭を胸に突き立てたまま死ぬのは、きっと苦しく、つらいだろう。
伊月くんの顔が見ていられなくなり、顔を伏せる。目の奥が熱くなってきて視界がぼやけてくるのが分かった。死んで肉体がなくなっても涙はこぼれるものなんだなと、何処か他人事のように思う。
「」
優しい声が再び私の名を呼んだ。顔を上げたと同時に私の瞳に溜まっていた涙がこぼれそうになる。伊月くんは先ほどと同じように腕を伸ばし、今度は私の頬に“触れようとした”。私の頬にはなんの感触もない。しかしそれでもひどくあたたかかった。
「最期じゃないよ。最期なんかにさせない。を死なせたりなんかしない」
伊月くんは両手で私の顔を包み込むように触れた。私に感触はないし、それは彼も同じだろう。私の涙は伊月くんの手をすり抜けて地面へこぼれ落ちて行き、堪えようと思っても一向に止まりそうになかった。空から雨が降り出して、伊月くんの髪や、頬や、肩が濡れていくのが分かる。私の体は雨の感触も冷たさも何もかも分からない。自身の涙と雨が混ざることすらもありはしない。
「夜が明けたら会いに行くよ。その時にこの話の続き、しよう。だから、もう泣かないで」
その言葉に、私は小さく「うん」とだけ呟いた。
伊月くんは懐から人の形を模したような白い紙切れを取り出すと、私の目の前にかざす。心に沈殿した想いも、突き刺さったままでいた杭も、何もかもが吸い込まれ消えていくような感覚に陥った。
「絶対に会いに行くから、……待ってて」
伊月くんの言葉が微かに聞こえる。それに返事などは出来ず、まるで眠りに落ちる時のように意識が遠のいていくのが分かった。
最期の方に「僕も好きだよ」なんて言葉が聞こえたような気がした。しかしそれはこの夢と同じく、神様が私にかけてくれた慈悲なのだろう。夜明けはまだ遠いように思えたが、日が昇り朝が来て、彼と再び会えることを祈りながら、私はゆっくりと目を閉じた。