※三章ネタバレ有

柔らかな黒をねだる

 月城さんは退院してからずっと同じ場所に居た。ショップへ向かう際にある階段のすぐ下のベンチだ。そもそも私は月城さんがどのような症状で医者の手を必要とし、いつ頃退院したのかどうかすらも何も知らない。彼女の件については詳しくは聞かされていないし、誰も何も教えてくれなかった。

 鍛えるべきは心。月城さんは一日中ずっとベンチに座り、ただその独り言だけを何度も繰り返していた。彼女がどのような状況に陥ったのか詳しくは知らないが、彼女の周囲に起きた出来事は知っている。それは私でなくともセラフ部隊員のほとんどが知っているだろう。月城さんの心中を察する、なんてことは差し出がましいと思った。私なんかに同情されることを、月城さんは良く思わないだろう。

 私は通りにある自動販売機で缶コーヒーを一つだけ買った。誰でも知っているようなメーカーで、可もなく不可もない味の言わばありきたりな物だ。そのまま月城さんの元へ向かい、私は買ったばかりの缶コーヒーを何も言わずに差し出した。月城さんは私の存在に気が付くと顔を上げてこちらを見たが、それを受け取ろうとはしなかった。

「ん」

 口を閉じたまま声を出して、差し出していた缶コーヒーをもう一度前に出す。すると月城さんは呆れたような様子で、鼻で長い溜息をついた。

「いらぬ……。喉は、渇いていない」

 缶コーヒーは喉が渇いている時に飲むというよりも、ホッと一息つきたい時に飲む場合の方が多いと思う。そんなことを考えたが口には出さなかった。私は月城さんの隣のあいているスペースにどかりと音を立てて腰を下ろすと、缶のプルタブを上げる。聴き馴染みのある爽やかな音が妙に耳についた。

「何の用だ?」

 月城さんはこちらを見ようともせず、何もない正面を見つめ続けたまま問いかけた。声のトーンは予想通り低く、暗い。

「別に?月城さんと一緒にコーヒーでも飲もうかなって」

 私も同じように正面に目を向けたまま返答し、その後すぐに一度コーヒーを口に含む。ブラックのため当然ながら苦みが強い。鼻から抜ける香りも、いつもであれば心地良さを感じるはずなのに何故か違和感を覚えた。

「“一緒に”、と言う割には、一本しか持ってきていないではないか」

 当然ながら突かれたそこに、私はひっそりと口角を上げる。月城さんであれば必ず指摘してくるだろうと分かっていた。缶コーヒーを一つしか買ってこなかったのは、わざとだ。私は持っていた缶をそのまま月城さんの方へ差し出す。彼女に向かって缶を差し出すのは今日で三回目だ、なんてことをぼんやりと考えた。

「うん。だから、“一緒に”」

 私の言葉に月城さんは目を丸くした。恐らく何を言われたのか理解出来なかったのだろう。しかしすぐに何かを察したのか顔をいつもの無表情に戻し、何も言わずに缶コーヒーを受け取った。その瞬間に軽く指先が触れ合い、胸が震える。

 月城さんは缶の口へ控えめに口唇を触れさせると、そのまま軽く顎を持ち上げコーヒーを一口飲んだ。その表情は先程と一切変わらなかったが、微かに眉間へと寄せられた皺を私は見逃さなかった。

「我が淹れたコーヒーの方が、万倍美味い」

「そりゃそうでしょうよ」

 少し前、いや、それなりに昔だったかもしれない。いつだったか月城さんがカフェテリアにある道具を借りて私にコーヒーを淹れてくれたことがあった。コーヒー豆を挽く音、お湯を注いだ時に発生した泡、鼻から入り全身を巡るような感覚がした良い香り、全てを昨日のことのように覚えている。音すらも、空気すらも、香りすらも、月城さんが生み出す全てが私にとっては愛おしかった。

「また月城さんのコーヒーが飲みたいなぁ。私はあの味も、あなたも、……恋しくてたまんないんですから」

 まるで独り言のように、無意識に言葉が口からこぼれた。月城さんの顔を見ると再び目を丸くしていたが、それをすぐに細め、伏せるようにしながら微笑む。口元からフッという音が聞こえた。

「……物好きな奴だな、貴様は」

 小さな呟き。それは先程の私と同じくまるで独り言のように聞こえた。月城さんは私の手を取り、持ち上げると、そこへ缶コーヒーを握らせる。彼女の体温のせいか、缶がぬくもりをもっているように感じられた。

「すまない、。もう少しだけ待っていてくれないか。いつか、必ず」

 月城さんの表情は真剣そのものだった。何となく呟いた至極どうでもいい私のぼやきにすらこんな顔をしてしまう月城さんが好きだと改めて強く感じる。

「いいですよ。月城さんの頼みなら、いつまでだって待ちますよ」

 迷いなく答えると、月城さんは柔らかく微笑んでくれた。彼女のそんな表情を見るのはとても久しぶりで、胸の奥の方が狭くなる。見ていられなくなり目を伏せると私の髪に何かが触れた。

「ありがとう、

 月城さんは私の髪に触れ、そこを軽く撫でながらお礼の言葉を口にした。こちらこそ、だとか、どういたしまして、だとか、気の利いた返答を考えるも私の口からは何の言葉も、何の声すらも出なかった。

 まるで宝物を抱えるかのように両手で持っていた缶コーヒーへ、おもむろに口唇を付ける。苦いはずのブラックコーヒーが何故か甘く、それでいて涙のように塩辛いような味に感じたのは、きっと気のせいなのだろう。