若先生とて眉をも読まれ
久しぶりに来日すると言う高永夏と会うことになったのは、ボクが中国語を話せる“せい”だった。彼は数日間日本に滞在し色々な人に挨拶をしてまわるらしいが、案の定ボクに通訳を頼みたいらしい。そこまで悪い気はしなかったがボクもそこまで暇ではないため断っても良かった。しかしなんとなくハッキリ断り切れず、とりあえず日程を調整して彼が滞在するホテルで一度会う事になった。
すると、中国の有名棋士である高永夏を一目見たいと、同じ塔矢門下でボクの姉弟子であるが言いだし、彼女を同席させることにした。一般人なら断るべき所だが彼女は棋士の一人なので問題はないだろう。その時はそう考えていた。
そして永夏と会う当日。初めて対面したは始めこそ緊張していたものの、数分で打ちとける。この社交性の高さも彼女の魅力なのだなぁと改めて思った。
「へェ、あんた棋士なのか」
しばらくしてが棋士だと聞いた永夏が言う。中国語の分からないは目を丸くしつつもニコニコと愛想の良い笑顔を浮かべており、ボクが彼女にに永夏の言った事を訳して説明すると、は「はい、そうです」と言って頷いた。
「フーン。日本の女流棋士にこんな美人が居たとは知らなかったな」
永夏の独り言のような低いつぶやきが耳に届く。思わず彼の方を見ると永夏はボクの顔を見ながらニヤニヤしていた。その表情は“さァ早く通訳してみろ”と言わんばかりの顔だ。
口ごもり、なにも言えずにいるボクに永夏が楽しそうに続ける。
「おい。まさかお前ら、付き合ってんのか?」
「違う。この人は姉弟子だよ」
中国語で問いかけられ中国語で返す。ボクの言い方はまるで永夏の言葉に食いついたようで少し格好悪い気がした。ボクたちが何を話しているのか分からないは永夏とボクの顔を交互に見て戸惑っている。そんな彼女の様子をみた永夏は両眉を上げ、片方の口角だけを上げていやらしく笑った。
「そうか。なら好都合だな」
好都合?永夏が何を言いたいのか分からず、ボクは眉間に皺を寄せたまま黙って彼の顔を見た。すると永夏は座っていた椅子から身を乗り出し、目の前に座るの手の上に自分の手を重ね、握る。自分の目を疑った。それと同時にボクの心臓がドクリと大きく鳴り、体が固まる。
「なァ、さん、だっけ?今度中国に来ないか。オレが案内するよ」
なにを言ってるんだコイツは。そう思いつつも声には出さない。永夏はに顔を近づけにこやかに笑うが、中国語が分からないは永夏が何を言っているのか分からず戸惑いながらも笑顔を浮かべ、首を傾げていた。
「ボクがいるから結構だよ」
気が付くと、ボクはそう言いながら永夏の肩を掴み彼女から引きはがしていた。ボクの言葉ももちろん中国語でには分からない。ニヤニヤと笑う永夏と、彼を睨みつける目つきの悪いであろうボクを目の前に、は何度も瞬きを繰り返していた。
「冗談だよ」
永夏はどうやら笑いを堪えていたようで、小さな笑いをこぼしながら自分の顔の前で手のひらをヒラヒラと動かして見せる。ボクは永夏の軽率な態度に嫌悪を感じながら再び彼を軽く睨んだが、永夏は相変わらずのいやらしい笑いを見せるだけだった。
「なァ塔矢、オマエこの子のこと好きなんだろ?」
図星をつかれ思わず目を見開いた。そんなボクの顔をみた永夏は先ほどよりも楽しそうに笑い、口元を押さえ喉をクツクツと鳴らす。
「悪いが、もう失礼する」
顔が熱くなっていくのが分かった。ボクはそれを隠すように顔を伏せながら椅子に座ったままのの手を取ってその場に立たせると、彼女の手を引いて部屋の出入口へと向かう。背後から永夏の「じゃあ、またな」という声が聞こえた気がした。
「アキラ!アキラってば!どうしたの急に」
の手を引いたまま、長い長いホテルの廊下を無心で歩き続けていたボクの耳に彼女の声が届く。ハッとし掴んでいたの手を離して後ろへ振り返った。は不思議そうな表情をしており、同時に混乱しているようにも見えた。
「ねぇ、高永夏さん最後の方なんて言ってたの?アキラが通訳してくれなかったから分かんなかったよ」
永夏が何を言ったか、なんて、そんなことに知られたくはない。永夏が言った話の内容も、永夏がボクをからかったことも、ボクがの事を好きだという事実も、彼女には知られたくはない。
「別に。たいしたこと言ってない」
この場は誤魔化してしまおうと思ったが、は眉間に皺を寄せ目を細めるとボクを怪訝そうに見る。彼女がボクの言葉に納得しないという事は予想していたことだった。
ボクはのその表情を無視し、振り返っていた体を再び前に向け歩き出す。何も言わずに着いてくるの足音を背中に感じた。
「ねぇアキラ、なに怒ってんの?」
そう問いかけられ、思わず歩みを止めそうになる。今のボクの心中は自分でも良く分からないほどに複雑だと思う。しかしそれでも、怒り、焦りなどの感情は表に出していないつもりだったし、上手く隠せていたと思う。しかし生まれた時からほとんど一緒に過ごしてきた姉弟子に対してはそう簡単には上手くいかないことらしい。
「別に、怒ってないよ」
「ええ?怒ってるじゃん」
「怒ってない」
「嘘だ。怒ってるよ」
「怒ってないって言ってるだろ!」
大声を出しながら振り返りの顔を見ると、彼女は眉間に皺を寄せボクを睨んでいた。
そりゃは美人かもしれない。囲碁だって強いし社交性や向上心も高い素晴らしい女性だ。だからってあんなナンパみたいな事を目の前でされて正気で居られるわけないじゃないか。でも、まるで嫉妬みたいなこんな気持ちを彼女に伝えられるはずがない、
ボクは手を伸ばし、先ほど永夏が握ったの手を強く握ると、ホテルの出口へと歩いた。後ろから「絶対怒ってる」だとか「なんなのよもう」などというのぼやきが聞こえたが聞こえないふりをした。
もし今後、が中国語を学びたいと言ったらどうしよう。一瞬頭をよぎったが、今は考えないようにした。